モース
#デュルケーム を踏襲する。
「ギフト、ギフト」
『贈与論』
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ポトラッチ
暴力戦争のオルタナティブ
粋だよな〜
モース的贈与
与える義務
受け取る義務
返す義務
これがプラスサムなコーディネーションゲームとして機能したらリベラル・アイロニスト普及につながるよな
例)
マオリ社会のクラ貿易
物やどる精霊「ハウ」が贈与をもたらす
Why: 特定の人に残ることを望まず、残ると災いを起こす
本義務の厳守は富の交換に過ぎず、法的紐帯・宗教的紐帯、又、精霊の交換とは「霊的な本質、魂」で「性質や身体の一部」であるからして精神的、身体的紐帯である。
この相互補完的な協力関係を構築する社会的インタラクションであり社会的紐帯を全体的給付の体系という。
ただ受け取ることは否定的に見られてきた
モースは先駆けて書いた論文「ギフト、ギフト」の中で、ゲルマン語系の言語の「ギフト」という単語には「贈り物」という意味と「毒」という意味があることを強調している。
返報性の原理
本来的な全体的給付の体系は主体が人間に限定されないという点
インドの古典『マハーバーラタ』を取り上げ、この叙事詩を「ある巨大なポトラッチにまつわるお話にほかならない」と述べている。『マハーバーラタ』においては、「土地にせよ食糧にせよ、人が贈り物として与える物はすべて人格化されている」。土地や食料は対話を交わす存在であり、契約の当事者である。大地は、次のように歌う。
わたしを受け取ってください(受取手よ)わたしを与えてください(与え手よ)、わたしを与えれば、わたしを改めて得ることになるでしょう。
つまり大地を受け取らなきゃいけないし、大地に与えなきゃいけないし、返さなきゃいけない。
贈り物を受け取ったにもかかわらずお返しをしないでいれば、その人が劣位に置かれるということは昔とかわりない。とくに、あげる側がはなからお返しなど期待しておらず、受け取る側がもらいっぱなしで終わるような場合には。エマソン(Emerson)の興味深いエッセイ、「贈り物とプレゼントについて」とをここで想起しても、ゲルマン的倫理の領域から離れることにはならない。施しが、それを受け取る者を傷つけるというのは、今もかわらないのだ。むしろわたしたちの倫理においては、富裕な「慈善家」が誰かに慈悲を施すことによって、その誰かを自分ではそれと気づかずに侮辱していることになるという事態をなくすべく、意が用いられているのである。