プラトン
初期
『ソクラテスの弁明』
彼の弟子プラトンが記したソクラテスの弁明はソクラテスが若者に悪影響を与えた、また無神論を唱えたという理由から裁判にかけられるところで始まる。ソクラテスはデルポイの神託から「ソクラテスがアテナイで1番賢い男」と言われ、それが本当か否か確かめるため詩人、職人のところへ行き確かめるのだが詩人は持って生まれた才能によって詩を書くことができ、そして彼らはその詩の意味を説明することができないということで”賢い”には結びつかない。職人たちは自分の分野には詳しいものの、それによって「自分たちは他のことにも詳しい」と勘違いしてしまっていて”賢い”には結びつかないとソクラテスは判断(問答法)。彼は「All I know is that know nothing」/無知の知、自分は賢くないということを知っている、と知るのだった。
ソフィストと裁判の果てにソクラテスは有罪判決をうけるけれども彼は死を恐れることは自分を賢く見せようとすることと同じであり、知識への妨害となる肉体を魂が離れ、無知を克服するために真実を認識する哲学は死への準備だと言い、死刑になる
『クリトン』
大衆批判(クリトンの説得において)
もっと顧慮に値する識見最も優れたる人達は実際に会った通りのことがあったのだと信ずるじゃないか〜多衆が最大の禍害を加える者であってくれればいいと思う。そうすれば彼等はまた最大の福利をも加え得るわけだからね。〜彼等のすることは皆偶然の結果なのだよ。
ローティやな
ソクラテスの実存論
熟考の結果最善と思われるような主義以外には内心のどんな声にも従わないことにしているのだから。~ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだ~善く生きることと美しく生きることと正しく生きることは同じだということ。
真善美が一体であり、熟議民主主義の走りぽい気が。
上記において国法に裁かれるべきか否かの国家論が始まる
ソクラテスの国家論
我々によって産みつけられ扶養され教育されてきたくせに〜臣下として我々に属することを否認するような真似ができるのか~祖国とは母よりも父よりもまたその他すべての祖先よりももっと貴ぶらべく、もっと畏怖すべくまたもっと神聖
あるべきナショナリズム
行為によって我々に従って市民生活をすることに同意したものだ。
他の国法を知る願望を抱かず、旅行もせず、子供も拵え、追放の刑も提議もせずというソクラテスの姿勢より
『カルデミス』
ホリスティックな治療
「(...)カルミデス、それは、ただ頭だけを健康にすることのできないようなものなのだ。いや、おそらくきみもすでにすぐれた医者たちから聞いたことがあるように、人が眼病にかかって医者たちのもとへ行くと、医者たちはたぶんこういうだろう、ただ目だけを治療しようと試みることはできず、もし目のことでも人がよい状態であろうとするならば、頭もまた同時に手当てをしなければならないとね。そしてまた、頭にしても、身体全体を治療することなく、頭をそれ自体それだけでいつか手当てすることができるだろうと考えることは、ひどく愚かなことであると、医者たちはいうだろう。それで、この説に従って、すぐれた医者たちは、養生法によって身体全体へと人を向かわせ、全体とともにその部分を手当てし治療するように試みるのだ。あるいは、きみは、彼らがそのようなことをそのようにいっており、また、事実そうであることに、気付いていなかったのか」
「それでは、カルミデス、その唱えごとのことも、そういうものなのだ。わたしはそれを、戦いに出ているとき、あちらで、ザルモクシスに属するトラキア人の医者たちの内のある者から、学んだのだ。この派の医者たちは、人を不死にするとさえいわれているのだ。さて、このトラキア人は、今さっきわたしの話していたようなことについてのギリシア人たちの話は、もっともであると、話していた。「しかし」と彼はいった、「神でありながら、わたしたちの王であるザルモクシスは、頭の治療なしに目を治療しようと試みるべきではなく、また、身体の治療なしに頭を治療しようと試みるべきではないのと同様に、魂の治療なしに身体も治療しようと試みるべきではないというのだ」。そのトラキア人の話では、これこそが、多くの病気がギリシアの医者たちに気付かれていない原因であるという。つまり、全体に配慮しなければならず、全体の調子がよくなければ、部分の調子がよいことは不可能であるのに、彼らが全体をおろそかにしていることが、その原因なのだそうだ。というのも、トラキア人のいったところでは、身体にとって、また、一人の人間全体にとって、悪いものもよいものもすべては、魂から出てきており、ちょうど頭から目に流れ出るように、魂から流れ出るのだ。それで、頭のことでも身体の他の部分のことでもよい調子であろうとするなら、そのものの手当てを第一に、また、一番多くしなければならないと、彼はいった。そして、彼の話では、恵まれた人カルミデスよ、魂はある種の唱えごとによって手当てをされ、その唱えごととは美しい言葉であるという。そのような言葉から魂の内に思慮が生じるのであり、それがその内に生じそなわれば、頭にも身体の他の部分にも健康をもたらすことは、もう容易であると、彼はいった。
上記で言われる「言葉」とは「言論」とも訳される。すなわち思慮にこそ魂の治療が可能なのであり、その思慮を授けるは言論=言説である。そしてこの言説を唱えるものこそ、魂の医者であり、魂の治療をもたらす存在たり得るのだ。
『プロタゴラス』
魂の医術
※ここで登場するヒポクラテスは医学の父たるヒポクラテスと同一人物ではない
昨夜のことだ。まだ夜も明けやらぬころというのに、ヒポクラテス−アポロドロスの息子で、パソンの弟だ−あの男が、杖で戸をひどくはげしくたたいていた。誰かが戸をあけてやると、すぐに息せき切ってかけこんできて、「ソクラテス、目をさましていらっしゃるのですか、眠っていらっしゃるのですか」と大声で言う。ぼくはその声で彼だとわかったので言った、「ヒッポクラテスだな。何か変ったしらせでもあるのではなかろうね」「いえいえ、よいしらせのほかに何がありましょう!」「それはよかった。しかし何だね、そのしらせというのは?それに、何のためにこんな時刻にやってきたのかね?」「プロタゴラスが来たのです」と彼はぼくのそばに立って言った。
ヒポクラテスを興奮させるそれはプロタゴラスの知に存する。ヒポクラテスは「すべての人が口をそろえてあの人をたたえ、言論にかけては第一人者だと言っています」とし、「それで、そのことが君にとって、どうしたというのかね。プロタゴラスが何か君に、悪いことでもしたというのかね?」というソクラテスの問いに対し、「神々に誓って、まったくそのとおりなのですよ、ソクラテス。なにしろあの人は、自分だけが知者でいて、この私を知者にしてくれないのですからね」と答えるのだ。そこでソクラテスはそのおかしさを説く。
「ちょっときくが」とぼくは言った、「ヒッポクラテス、君はいま、プロタゴラスのところへ出かけて、君自身のために報酬として金を払おうとしているわけだが、いったい君は、自分がこれから行こうとしている人物がどういう人だと考え、また、自分が何になろうというつもりで行くのかね?したとえば、かりに君が、君と、同じ名前のアスクレピオス派の医者、コス島のヒッポクラテスのところへ行って、君自身のために報酬として金を払うつもりでいたとする。その場合、誰かが君に向かって、「君にききたいのだが、ヒッポクラテス、君は、君がこれから報酬を支払おうとしているヒッポクラテスという人を、何者であると考えているのかね」とたずねたとしたら、君は何と答えるだろうか」「医者だと考えている、と答えるでしょう」「「自分が何になろうというつもりなのかね」ときかれたら?」「医者になるつもりなのだ、と答えるでしょう」「では、かりに君が、アルゴスのポリュクレイトスやアテナイのペイディアスのところへ行って、君自身のために彼らに報酬を支払うつもりでいるとした場合、誰かが君に、「君がポリュクレイトスやペイディアスにその金を払うつもりでいるのは、つまり彼らを何者と考えてのことなのかね」とたずねたとしたら、君は何と答えるだろうか」「彫刻家、と答えるでしょう」 「君自身は何になろうというつもりで?」「むろん、彫刻家」「よろしい、さあそれでは、いまぼくと君とは、プロタゴラスのところべ行って、君のために報酬として金を払う心づもりをしているしわれわれの財産だけで彼を説き伏せるのにこと足りるならそれでよし、足りなければ、それに加えて友だちの金をつぎこんでまでね。そこでもし、誰かが、それほどまでにこのことにひどく熱心になっているわれわれに向かって、こうたずねたとしょう。「ぼくに言ってくれ、ソクラテスにヒッポクラテス、君たちはプロタゴラスをどういう人と考えて、金を払うつもりでいるのか」とね。われわれはこの人に何と答え日たものだろうか。われわれが耳にするところでは、プロタゴラスには、肩書きとしてどんな名前がつけられているだろうか。ちょうどペイディアスは彫刻家、ホメロスは詩人と呼ばれているのと同じような意味で、プロタゴラスの場合には、どのような名前をわれわれは耳にしているだろうか?」「世間で呼ばれているところでは、たしかにあの人は、ソフィストであるということになっていますね、ソクラテス」と彼は言った。「すると、われわれが彼に金を払おうとしているのは、彼をソフィストと考えてのことなのだね」 「たしかにそのとおりです」「そこでもし誰かが、さらにこう君にたずねたとしたら?「それでは、君自身は何になろうというつもりで、プロタゴラスのところへ行くのか」」すると彼は、顔をあからめて答えた!!すでに空もいくらか白みかけていたので、彼の様子がよくわかったのだ。「先のいろいろな例にならうとすれば、明らかに、ソフィストになるためということになるでしょうね」 「だが、君としては、神々に誓って、自分がギリシア人たちの前にソフィストとして現われることに、気がひけはしないだろうか」 「ほんとうのところはそうなのです、ソクラテス。心に思うことをそのまま打ち明けなければならないとすれば」
そこでソフィストを師とすることの愚かさ、その馬鹿馬鹿しさ説く。ヒポクラテスが自らに組み込もうと画策するは、学識でありそれは魂の高低を決定する審級にある。それゆえそれは「魂の医者」にしか許されない行為であり、ソクラテスはその危険を咎めるのである。
「いったい君には、自分がいましょうとしていることの意味がわかっているのかね。それとも、気がつかずにいるのかね」 「どんなことについてですか」「君はいま、ほかならぬ自分自身の魂の世話を、あるひとりの男−君の言うところによれば、ソフィストであるところのひとりの男−にゆだねようとしているということだ。では、そのソフィストとはそもそも何ものなのか、君がもしそれを知っているとしたら、ぼくは驚くだろう。だが、その点をもし君が知らないでいるとすれば、君は、自分が魂をゆだねる相手がいかなる人かということも−善いしろものかも悪いしろものかも−知らないでいるということになる」(...)そこでつぎに、ぼくはこう言ってやった。「いったいどうなのだね。君には、自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね?かりにもしこれが、君が身体を誰かにゆだねて、身体がよくなるか悪くなるかの危険をおかさなければならないというような場合だったとしたら、君はきっと、その人にゆだねるべきか否かを、いろいろと思案を重ねたことだろうし、また、何日も何日も考えながら、友人や身内の者の助言を求めたことだろう。しかるに、君が身体よりも大切にしているこの魂というもの、君のすべての幸不幸はそこにかかり、それが善くなるか悪くなるかによって左右されるところのもの、そういうものについては、君は父親にも、兄弟にも、またわれわれ仲間の誰ひとりにも、ほかならぬこの君の魂をあの新来のよそ者にゆだねるべきか否かを、相談しなかったのかね。君の話によると、昨夜このことを耳にするや、夜明けを待たずにとんできて、君自身をあの男にゆだねるべきかどうかということについては、一言も語らず、相談もせず、そして君自身の金ばかりか、友だちの金まで注ぎこんでもかまわぬつもりになっているのか−まるで何が何でもプロタゴラスにつかなければならないと、もうすっかり決めこんでしまったかのように!そのプロタゴラスという人を、君は知りもしなければ、まだ一度も話をかわしたこともないと言う。ただソフィストと名づけるだけで、ソフィストとはそもそも何ものであるかについては、明らかに君は知らずにいながら、何もわかっていないその人に、わが身をゆだねようとするのか(...)そもそもソフィストとは、ヒッポクラテス、魂の糧食となるものを、商品として卸売りしたり、小売りしたりする者なのではないだろうか。このぼくには、どうも何かそのような者にみえるのだが」「魂の糧食となるものとは、ソクラテス、何ですか」「もろもろの学識だ。そして、友だちとして言っておくが、ソフィストが、ちょうど身体の糧食をあきなう卸商人や小売商人と同じように、自分の売りものをほめたてて、われわれをだますことのないように、気をつけたほうがいいよ。というのは、彼ら食物の商人たちも、自分たちが持ってくる商品について、そのどれが身体によいか悪いかを自分自身でも知らないのに、売るにあたって何もかもほめたてるし、彼らから買うほうは買うほうでまた、体育家や医者でもないかぎり、そのよしあしがわからない。それと同じように、いろいろの知識を国から国へと持ち歩いて売りものにしながら、そのときそのときに求めに応じて小売りする人や、そういう人々もまた、売りものとなれば何もかもほめたてるけれども、しかし中にはおそらく、君、自分が売ろうとするものについて、そのどれが魂に有益であり、有害であるかを、知りもしないような連中がいるかもしれない。彼らから買うほうの人々も、やはり同様だ。−この場合は、魂をあつかう医術の専門家とでもいうべき者でないかぎりはね。
中期
『国家』
1巻
ケパロスとの談話-老とソポクレスと財産
ケパロスは「肉体のほうの楽しみが少なくなっていくにつれて、それだけ談論の欲望と歓びとが、ますます大きくなってきている」として「親しい友人や身内の者を訪れるつもり」でポレマルコスの家(ポレマルコスの父がケパロス)に訪れてくれ、とさそう。それに対してソクラテスは下記のように答える。『イリアス』『オデュッセイア』ヘシオドス『仕事と日々』などでよく使われる詩を引用しながら。
「ええそれはもう、ケパロス」とぼくは言った、「私には、高齢の方々と話をかわすことは歓びなのですよ。なぜなら、そういう方たちは、言ってみれば、やがてはおそらくわれわれも通らなければならない道を先に通られた方々なのですから、その道がどのようなものか、―平坦でない険しい道なのか、それともらくに行ける楽しい道なのかということを、うかがっておかなければと思っていますのでね。とくにあなたからは、そ
れがあなたにどのように思われるかを、ぜひうかがっておきたいのです。あなたはもう、詩人たちの言葉を借りれば「老いという敷居にさしかかっている」と言われるその齢にまで達しておられるわけですから〜
そしてそれに対して「ゼウスに誓って、いいともソクラテス」とケパロスは言い、「われわれの大部分の者は悲観にくれるのがつね」と告げる。同時に対照的な例としてソポクレスの老年感を紹介する。
私はいつか、彼がある人から質問されているところに居合わせたことがある。『どうですか、ソポクレス』とその男は言った、『愛欲の楽しみのほうは?あなたはまだ女と交わることができますか?』ソポクレスは答えた、「よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているたとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃れおおせたようなもの」私はそのとき、このソポクレスの答を名言だと思った〜まったくのところ、老年になると、その種の情念から解放されて、平和と自由がたっぷり与えられることになるからね。さまざまの欲望が緊張をやめて、ひとたびその力をゆるめたときに起るのは、まさしくソポクレスの言ったとおり、非常に数多くの気違いじみた暴君たちの手から、すっかり解放されるということにほかならない。
だがこうした名言を跳ね飛ばしケパロスはその原因を「ソクラテス、老年ではなくて、人間の性格なのだ。端正で自足することを知る人間でありさえすれば、老年もまたそれほど苦になるものではない。が、もしその逆であれば、そういう人間にとっては、ソクラテス、老年であろうが青春であろうが、いずれにしろ、つらいものとなるのだ。そして続けてソクラテスは「あなたがそのように言われましても、多くの人々は、あなたのおっしゃることをそのままに受け取らないでしょう〜べつに性格のおかげなどでさなくて、あなたがたくさんの財産をもっているからこそ」だと指摘し、それでもお金に執着しないケパロスに「あなたが財産をたくさん持っていて良かったと思うこと」を問う。それに対して人間は死期が近づくと「以前はなんでもなかったような事柄について、恐れや気づかいが心に忍びこんでくる」という。
たとえばハデス(冥界)のことについて言われている物語、―この世で不正をおかした者はあの世で罰を受けなければならないといった物語なども、それまでは笑ってすませていたのに、いまや、もしかしてほんとうではないかと彼の魂をさいなむのだ〜びくびくしながらあの世へ去るといったことのないようにすること、このことのためにお金の所有は大いに役立つのである。〜私としては、ソクラテス、このことのためにこそ富は、理をわきまえる者にとって最大の効用をもつ、と言いたい
だがここで、そうした清々しい気持ちであの世へ向かうための正義とはなにかとソクラテスは問う。ここでケパロスからポレマルコスが議論を相続し「シモニデスの言うこと」を展開するのだ。
ポレマルコスとトラシュマコスとの正義論
「さあそれでは」とぼくは言った、「議論の相続人である君よ、教えてくれたまえ。〈正義〉についての正しい説だと君が主張するのは、シモニデスのどのような言華ね?」 「『それぞれの人に借りているものを返すのが、正しいことだ』というのです」とポレマルコスは答えた。
そこでソクラテスはお得意の問答法で立脚点を固めていく。そこでシモニデスの真意を暫定的に「それぞれの相手に本来ふさわしいものを返し与えるのが正しい、ということらしいが、ただこの〈ふさわしいもの〉のことを〈借りているもの〉という言葉で表現した」と整理し、「正義と呼ばれてしかるべきものは、そもそも何に対して、何を与える技術のことであるか?」と問う(その後多分に論駁し下記結論に至る)
彼は言った「それは友と敵に対して、利益と害悪を与える技術だということになります」「そうすると、シモニデスは、友には善いことをなし、敵には悪いことをなすのが、正義にほかならない、と言っているわけだね?」「そのように思えます」〜「してみると、『それぞれの相手に借りているものを返すのが、正しいことだ』と主張する人がいて、その主張の意味が、正しい人間は敵に対しては害をなし、友に対しては益をなすことを〈借り〉として義務づけられている、ということであるとすれば、そんなことを言った人は知者ではなかったことになる。その言葉は、真実ではないからね。なぜなら、われわれに明らかになったところでは、およそ人を害するということは、けっして正しいことではないのだから」「同意します」「だから」とぼくは言った、「もしシモニデスなり、ビアスなり、ピッタコスなり、あるいはその他いやしくも知者として祝福されている人たちの誰かがそんなことを言ったなどと、主張する者がもしいたら、ぼくと君とは力を合わせて、その者と戦わなければなるまいね」〜「ところで」とぼくは言った、「この『友を益し敵を害するのが正しいことだ』という主張だが、これが誰の言葉だとぼくには思えるか、わかるかね。〜思うにこれは、ペリアンドロスか、ペルディッカスか、クセルクセスか、テバイのイスメニアスか、とにかくお金を持っていて、自分に大した力があると思いこんでいる人の言った言葉だろうね」
ただこうしたときに本当の「〈正義〉とはいったい何なのか、ほかにどのような主張が考えられるだろう?」そこで問うばかりで自らの見解を明らかにしない様に苛立っていた(そばに坐っていた)トラシュマコスは「〈正義〉とは何なのか、ちゃんと言いなさい!」と声を荒げた。それに対してソクラテスは「びっくり仰天」し「恐れをなして慌てふため」き、「ぶるぶる震えながら」、「これでほんとうに一生懸命なのだよ、君。ただ思うに、ぼくたちには力が足りないのだ。だから、君のように能力のある人たちとしては、僕たちを怒るよりは憐れむほうが、ずっとふさわしい態度ではあるまいか」と答えた。そうしたトラシュマコスは下記のような自論を展開する。
10巻
『パルメニデス』
『パイドン』
霊肉二元論:肉体(ソーマ)と魂(プシュケー)の分離
肉体は魂の牢獄である
後期
『ソピステス』