シャルダン
https://scrapbox.io/files/67b71309b9fd2b7a840b95db.png
1947/3
プロローグ《見ること》
本書で述べるのは、人間のすべてを現象という枠のなかに置くとき、人間はどういうものになるか、また人間は何を要求するかを見るための、そして見せるための努力についてである。われわれはなぜ見ようとするのだろうか? またなぜわれわれのまなざしが特に人間というものに向けられるのであろうか?見ること、生のすべてはここにあるといえよう!見ることが生の目的であるとまでは言えないにしても、少なくとも生の本質と言えるだろう。
人間は、二重の意味で〔すなわち主観的にみても、また客観的にみても〕世界の中心なのだから、宇宙の秘密をとく鍵として、どうしても見るための努力の対象とならざるをえない。第一に主観的な見地からいって、われわれはわれわれ自身に対してどうしてもパースペクティプの中心たらざるをえない。現象をそれ自体として、われわれ自身を除外して展開されるがままの姿で観察できると考えたのは、生まれたばかりの科学としては、たぶん必然的な素朴さであったといえるだろう。物理学者、博物学者は、最初は本能的に、まるで上から世界を眺めているかのように探求を進めてきたのであるが、そのとき彼らの意識が探求の対象であるこの世界から影響を受けたり、また世界に影響を与えたりしないですむかのように考えていた。今や彼らは自分たちのもっとも客観的な観察にも、当初に選ばれた仮説や、探求の歴史的発展の間に展開してきた思想の形式ないし習慣がしみこんでいるのを理解しはじめている。(...)観測者にとっては、自分が通り抜けている風景の中心点を、自身とともにどこまでも運んでゆくということはごく平凡なことで、またあきあきするようなことでさえある。しかし道の都合で、彼の視線だけでなく、事物そのものもそこから放射状に広がっているような、見晴らしに好都合な地点(十字路もしくは谷が出会う地点)に達するとき、この散歩者にはどのようなことが起こるだろうか?そのときには、主体的な観点が事物の客観的な配列に一致するから、視覚の完全な充実が得られる。風景ははっきりと理解され、照らし出されるだろう。それがほんとうに見るということである。人間の認識の威力がまさしくそこにあるように思われる。
第二に、自分自身を宇宙のかなめとして考えるのは人間だけではない。すべての動物もまたわれわれと同様なのである。しかし人間の特色は、自然のなかで視線のかなめをなしているというだけではなく、宇宙構造の軸でもあるということである。本書はこの現象の吟味と分析にほかならない。われわれは、思考の特質とその生物学的固有性のおかげで、自己の体験に対して実際に開かれている宇宙を全部残らず見わたすことができる一中心、独特な一点に置かれている。展望の中心である人間は、同時に宇宙機造の中枢でもある。だから好都合にも、また必然的にも科学全体を結局は人間に立ち返らせなければならないのである。もしも見ることがより以上のものになることを意味するのであるなら、人間を熟視しようではないか。そうすればわれわれの生をもっと充実させることができるだろう。またそのためには正しい視力調節が必要である。人間は、存在しはじめたときから人間自身の注視の的に供されている。実際に、数十世紀このかた人間は自分だけを見つめてきている。けれども、人間は自然界のなかでの人間の意義について科学的な見解をかろうじてつかみはじめたばかりにすぎない。こんなにものろい目覚めに驚くことはない。(...)われわれの見方のうちに以上のような特質をいていたなら、どんなに説明してもらっても、人間はわれわれにとって、多くの人が今なお考えているように、いつまでも、混沌の宇宙のなかをただようものにすぎないだろう。それとは逆に、人間は弱小であり、個々まちまちであり、停滞しているというこの三重の幻想がわれわれの見方からぬぐいさられるなら、人間はおのずから、さきに述べたように、宇宙進化の中心的な位置を容易に占めるようになろう。すなわち人間の生成発展の歴史そのものが宇宙の生成発展の歴史の頂きを飾る、進化の時々刻々の頂点に立つことになるだろう。人間は人類なくしては自己の姿を完全に眺めることはできないし、人類は生命なくしては考えられない。また生命は宇宙なくしては考えられないだろう。
以上のことから本書の本質的な糖想が生まれている。前生命、生命、思考力というこの三つの発展段階がまったく同一の連続した軌道、現象としての人間の曲線を、過去において描き、未来(髙次の生命!)にむかって進めようとしている。(...)たしかに、人間が自分は宇宙の大砂漠のなかで道を踏み迷っている一分子ではなくて、自分のなかで、生きようとする普遍的な意志が、一点にむかって集中し、人間完成への道をのぼりつつあるのだということを発見して、迷いから覚めるような瞬間ほど、決定的な瞬間があるとは思われない。人間は、長い間じられてきたように、宇宙の静止した中心〔つまり進化の動きにかかわりをもたない宇宙の中心〕ではなく、進化の軸であり、その矢印の先端であると考える方が、もっとすばらしいことであろう。
キリスト教的進化論
一なる地点からの発散より、一なる地点への収束という歴史観
われわれの精神は無限な視野を前方に発見しうるという事実によって、最高の完成に自己の何ものかを通じて到達するという希望があるときにしかもはや動かないだろう。(...)思考力の段階に達した生命は構造という点からして、つねにより高く上昇することを要求しなければ継続しえないことが確認された。それだけで、われわれの行動がすぐに必要とする二つの点が確保されるには十分である。第一の点は、われわれにとって未来に単に生命の存続だけでなく、生命を越えるものが、なんらかの形で、少なくとも集団の形で存在していることである。第二の点は、現在の生命の水準を越えたその生存形態を想像し、発見し、それに達するために、進化が通ってきた過去の道を最大限の一貫性でもって未来に向けてたどらせる方向に沿って考え、もっと先へ進んで行きさえすればいいということである。(...)人間が世界の運命を自らのうちに担っていることを認め、滅びることのない無限な前途が自らの前に開けているという判断を下したとき、無意識的な反射によって、他から孤立した努力のうちに自己の完成を求めるという危険な傾向に向かいがちである。
シャルダン曰くそうした「孤立への傾向は二通りある」とする。そして、それらは二つとも特有の歴史観を持ち合わせている。そこで、第一に紹介されるは「個別化の極限」による「自己完成」としての「救い」である。
最初の場合、個人のエゴイズムには有害になるほど都合のよい生得の本能(それは思考によって正当化される)が、われわれの存在を完成させるには大勢の他人からできるだけ離れなければならないと判断させる。達しなければならない(われわれ自身のこの極限)は、われわれ自身を他のすべての人から分離すること、あるいは少なくとも他のすべての人をわれわれ自身に服従させることのうちにあるのではないか?系統への隷属から部分的に解放された構成分子は、思考力をもつようになることによって、自己のために生きはじめたことを過去の研究が教えてくれる。われわれは今後そのような解放をさらに押し進める方向にむかって前進しなければならないのではないか?さらに前進するにはさらに孤独にならなければならないのではないか。その場合、人類は放射性物質のようであり、解離した無数の活性粒子のような状態で頂点に達するだろう。それはおそらく束状に火花を散らす花火が闇のなかに消えていくといったものではあるまい。それでは完全な死を意味するし、そのような仮説はわれわれの根本的な選択によって決定的に退けたばかりだからである。むしろ、透過性のもっと大きな、あるいはもっと幸運な若干の放射線は、時のたつにつれて、意識が自己完成を目ざしてつねに探し求めてきた道をついには見出すにいたるという希望がある。それは他のものから孤立すればするほど自己の集中度が強まるという考え方だ。孤独な状態にある、精神圏の救われうる成分子は、孤独のうちにとどまる結果として、個別化の極限において、また極端な個別化によって、自己の救いを見出そうとするだろう。
第二に紹介されるは進化論による優生思想的自己肯定である-それは淘汰を勝ち残ったと云う意味で民族レヴェルでの肯定をも意味する。
この優生思想的自己肯定と民族主義への言及は暗にナチスへの批判を込めていると言える。こうした孤立化の傾向に対して、シャルダンのユートピア的歴史観からそれを拒む。
ここで重要なことは次の点である。本質的な現象、つまり〈思考する粒子の自然な合流〉を無視する、個人の孤立-あるいは集団の孤立は、われわれに対して精神圏のほんとうの輪郭をかくすか、ゆがめるかするようになるし、また真実な地球の精神の形成を生物学的に妨げるようになる。このかぎりにおいて、この二つの傾向はどちらも間違っており、われわれを欺くということである。 ではこの「思考する粒子の自然な合流」とはなにか。それはまさにシャルダンが「歴史の本質は精神=身体相関のこれら主要な流れの遭遇、闘争、ついには漸進的な調和にある」としたものぇある。彼のもつ進化論的歴史観とは第一のエゴイズムのような放射状に離散していくものでもなく、第二のエゴイズムのような特定の分肢がその他全ての屍の上に立脚するものではなく、地球儀の子午線のような合流のダイナミクスをもつものである。
地球儀の上で子午線は一方の極を出発して互いに隔たりを増していき、他の極にいたって必ずまた合するが、そこに見られる場合と同じように、その分化もやがて(あるいは同時に)、人種、民族、国家が相互の繁栄によって強化され、完成される収斂運動に席をゆずって、それに従属するようになる。
シャルダンのこうした歴史観ゆえ、孤立主義的な傾向をもつ二つの歴史観は拒まれるのである。
それこそまさしく現に起きていることであるなら、孤立を主張するすべての主義の根底にかくされた重大な誤りを認めざるをえないのではないか。自己本位に〈めいめいが自分のことだけかまっていればいい〉という極端に走ることを辞さない人々のための未来という自己中心的な理想は間違っているし、自然の理にそむいている。いかなる分子も他のすべての分子とともに、また他のすべての分子によってのみ、動き、そして成長すると言うべきだろう。生命の間の掛液全体を一本の枝だけのために集め、他の枝の死の犠牲の上に立つ民族主義者の理想は誤っているし、自然の理にそむいている。太陽にむかって伸びあがるためには、まさに木の枝全体の成長が必要なのである。世界の出口、未来の扉、超=人間への入口、これらは、いく人かの特権者やあらゆる民族のなかから選ばれた唯一の民族だけに開けているのではない。それらは万人の圧かに対して、すなわち、全人類が地球の精神的革新において一致団結し、完成されるような方向に対してのみ道をあけるのである。
本書においては進化とは意識への上昇運動であることを認め、これを承認している。このこと自体は人間主義者のうちでもっとも唯物論的な人、あるいは少なくとももっとも不可知論的な人からも否認されることはないだろう。したがって進化は未来において絶頂に達して最高の意識といったものになるはずである。しかしこの意識はまさしく最高のものであるためには、われわれの意識の完成であるもの、すなわち自己を照らし出す自己集中の力を最高の段階に到達させるはずではないか。ヒト化の曲線を拡散状態にむかって延長して行くことは明らかに誤っている!思考力の未来像を推知しようとすれば、もっぱら高次の思考力、すなわち高次の人格化というものに向けて延長してみなければならない。(...)精神圏が、またもっと一般的に言って、宇宙が、構造的に単に閉ざされているというだけでなく、さらに一点にむかって集中していお有機的統一体でもあることを理解しさえすれば、全体という概念と人格という概念との対立に関する異議も反駁も一掃されてしまうだろう。四次元的時空というものは意識を包含し、生み出すから、必然的に収斂する性質をもつ。だからその巨大な層は、適当な方向にむかって進むなら、前方のある一点、すなわちこれらの層がすべてそのなかで一つに融合され完成させられる究極の一点―これを〈 Point Ω 〉と呼ぼう―に巻きこまれていくにちがいない。 すなわち起源より放射状に発散された「拡散状態にむかって延長して行く」のではなく、子午線的に収斂する。極から極への移動。その終極こそ〈 Point Ω 〉、バイオスフィア〔生命圏〕からヌースフィア〔精神圏〕への進化における完成である―もしかするとエヴァンゲリオンはそれゆえに人類補完計画の聖地が南極となったのかもしれない。 〈 Point Ω 〉の分析、そして愛
そこで「精神圏の進化の均衡を支えているところの人格的な集合点の特質をさらに深く分析してみなければならない」。また「進化の前方のこの極点はその役割を十分に果たすためにはどのようなものであるべきか?」としてシャルダンは〈 Point Ω 〉を解剖し、そしてその地点への道筋を示さんとする。さて、果たして我々は如何にして〈 Point Ω 〉へと向かうことができるのか。
エントロピーの対の存在として、愛を謳う。