シオラン
1990 “Pe culmile disperării, Bucureşti”(引用)
本直に言えば、私はぜ自分が生きるのか、生きるのをやめないのかを知らないと言わねばならないだろう。おそらく鍵は、生の非合理性という現象にあり、これこそが理由なしで生を持続させる。そして生きるためには不条理な理由(motive absurde)しかないとすれば?
『告白と呪詛』
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キリストは悪魔を指して、「現世の王」と呼んだ。聖パウロは、キリストと張りあおうとした結果、一挙に的を射抜くことになった。彼は悪魔を、「現世の神」と名づけたのだ。かくも権威ある声が、私たちを統治している者の名を、ずばりと言いきっている以上、どうして私たちに、廃嫡者を気取る権利があるだろう。
誰であれ、現在なんぞに用はない、と言いたげな人間を、本気で相手にするつもりはない。そこで私だが、いかなる事態に遭遇しようとも、私は原罪に助力を仰がずにはいないし、原罪なしでは、たえまない悲嘆、虚脱を、どうすれば避けられるのか、見当もつかない。
サント=ブーヴは、一八四九年、若者たちがロマン派の世紀病から身をそむけ、サン=シモン主義者のひそみにならって、「産業の限りなき勝利」を夢みるようになった、と書いている。この夢は、残りなく実現されたすえ、現代のありとあらゆる事業の信用を失墜させ、希望という観念そのものをも不信にまきこんでいる。