サヴァラン
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3章
美味学の誕生
知恵と戦いの女神ミネルヴァは、ユピテルの頭を割るとその中から、兜を被り手に槍をもち、全身を武装した姿で飛び出してきたといわれている。が、学問というものはミネルヴァと違って、最初から完全なかたちで生まれ出てくるものではない。それは時間の娘であり、少しずつ、段階を経て、知らず知らずのうちにかたちづくられる。最初は、経験によって得られるさまざまな知識を集積することによって。次いで、それらの知識から導かれる共通の原理を発見することによって。だから、その経験と知恵を頼りにされて病人の枕もとに呼び集められた老人や、傷ついた人を見たら手当をせずにはいられない同情心に厚い世話焼きたちが、今日の医学者の祖先なのである。また、いくつかの星が一定の期間の後に再び天空の同じ位置に戻ってくることを観察したエジプトの羊飼いこそ、最初の天文学者であるといってよい。美味学も、そのようにして生まれてきた。 そして、その誕生を、姉妹であるあらゆる学間たちがこぞって祝福し、彼女のために広い席を用意してやった。 それもそのはずで、ゆりかごから墓場まで私たちの面倒を見てくれる学間、恋愛の歓びと友情の絆を増し、憎しみを解きほぐし、仕事の取り引きを円滑に進め、われわれの短い一生の旅路の間に、他のあらゆる享楽の疲れを癒してくれる、しかもそれ自身は疲れを生じさせないという、他に例のない享楽をもたらしてくれる素晴らしい学問を、いったい誰が拒否できるというのだろうか。
4章
食欲の定義
日々の運動と生活によって、生体の内部にはつねに物質の消耗が生じている。したがって、この精妙なメカニズムによって働く人体は、要求される消耗に体力がついていけなくなる瞬間が来ることを告してくれる装置がなかったとしら、たちまちその機能をストップさせてしまうだろう。そのためのモニター(検知器)が、食欲なのである。食欲によって、私たちは食べたいという欲求の最初の知らせを受け取るのだ。食欲は、まず胃の中の弛緩あるいはわずかな倦怠感、そして軽い疲労感として感知される。と同時に、その欲求にふさわしい精神作用が働いて、これまでに食べておいしかったものの味を思い出したり、そのときの光景が目の前によみがえったり、なにかしら夢を見ているような感覚に襲われる。このような感覚は、決して悪いものではない。私たちは無数の同好の士たちが、こんなふうに心からの歓びをあらわして叫ぶのを聞いてきた。「よき食欲を持つことは、なんと素敵なことだろう。とりわけ、もう少しすれば間違いなく素晴らしいご馳走にありつけるとわかっているときは、なおさら!」。しばらくすると、消化器官のすべてが活動を開始する。胃袋は敏感になり、胃液は沸き立ち、 腹の中のガスは音を立てて移動する。口中には唾唾液が充満し、消化器官の一連隊は戦闘の開始 に備えて武装する。そしてさらに時が経つと、痙攣のような症状が出たり、あくびが出たり、 苦痛を感じたりして、腹が減った、という明確な感覚を持つに至るのである。 こうした症状のあらゆる段階は、食事の準備に手間取っているサロンの待合室に行けば、容易に見て取ることができるだろう。 これらの兆候は自然の摂理に基づくものであるから、いかなる洗練された礼儀作法をもってしても隠しおおすことはできない。だから、私は次のような格言を考え出した。料理人の備えるべきもっとも重要な資質は、時間を厳守することである。
6章
魚は、その種を集めてみると、哲学者にとって尽きることのない瞑想と驚嘆の源泉となる。これら不可思議な動物たちの、無限の変化に富んだ形状、彼らに欠落している感覚、あるいは与えられていたとしてもきわめて限られた感覚、その存在のかたちの多様さ、彼らがそこで生きることを運命づけられている環境の違いにより、呼吸から動作まですべてが規定されている、そのありさまを想像しただけで、私たちの思考の範囲は際限なく広がり、物質や運動や生命に関するあらゆる言説が修正を迫られる。彼らが明らかにノアの大洪水以前から存在していたという私なりの確信から生じるものである ついて言えば、私は魚たちに対してある種の尊敬に似た気持ちを抱いているまったく、天地創造後1800年を過ぎた頃に私たちの遠い祖先を溺れさせたあの大災害も、 魚たちにとっては単なる歓喜、征服、饗宴の一時期に過ぎなかったとは⋯⋯⋯⋯。
7章
渇きについて
9章
グルマンディーズについて
私はいろいろな辞書で「グルマンディーズ」という言葉を調べてみたが、満足できるような説明はどこにも見当たらなかった。どれを見ても本来のグルマンディーズを「大喰らい」とか「貪食」とかいう言葉と混同しているばかりで、そこから推論する限り、辞書の編纂者というものは、もちろん尊敬すべき存在であるには違いないけれども、美味この上ないヤマウズラの翼肉をいとも優雅な手つきで召し上がり、小指をちょんと跳ね上げてラフィットだとかクロ・ヴージョだとかの美酒のグラスを傾ける、あの愛すべき学者がたとはいささか趣きを異にするようである。彼らは、アテナイの優美とローマの豪奢とフランスの繊細とを兼ね備えた、社交術としてのグルマンディーズというものを完全に忘れている。賢く気の利いた配列と構成の妙、巧妙で手際のよい処理とその技術、情熱に満ちた賞味と怜悧で奥深い鑑賞。グルマンディーズのもつこれらの尊い特質は、もはやひとつの美徳と言ってもよく、少なくとも私たちにとってはもっとも純粋な享楽の源泉なのである。
11章
魚に対する神秘
キリスト教が迫害されていた約300年間、初期のキリスト教徒たちは自分たちの信仰を共有するシンボルとして魚を使いました。理由は3つあります。
一つ目は、旧約聖書のヨナ書によるものです。主のことばを受けたヨナは、主から逃れるために舟に乗って海に出ました。直後に大きな嵐に見舞われ、船長に主から逃げていることを告げます。そして嵐をしずめるために自らの手足を縛らせ、荒れ狂う海に投げ込ませました。途端に海は静かになり、舟に乗っていた人は大いに神を讃えたそうです。主は巨大な魚に命じてヨナを飲み込ませ、三日三晩、魚の腹の中にとどめました。ヨナはその間神を賛美し祈りを捧げました。このヨナの出来事は、後のキリストの十字架の死と三日目の復活にたとえられて、キリスト教のシンボルとして魚が使われるようになりました。
もう一つの理由は、弟子のリーダーであったペトロが漁師であり、ルカ福音書に「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われたところから、魚が使われるようになりました。
最後にギリシャ語で「イエス・キリスト・ 神の・ 子・ 救い主」と書きます。(ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ)その頭文字を合わせると、ΙΧΘΥΣとなり魚を意味します。詳しくは、ヨナ書、ルカ福音書5章に書かれています。