ルソーの倫理的・政治的理論は、責任の観念を従来試みられなかった方面へと移転する。その理論の真の歴史的意義と体系的価値は、それが「責任」能力の新しい主体を創出したことに存する。この主体は個々の人間ではなくて、人間社会である。自然の手から離れたばかりの個々の人間は、まだ善と悪の対立の埒外にある。彼は自己保存の自然的本能のままに従い、「自愛amour de soi」に支配される。だがこの自愛の精神は、ここではまだ他人の抑圧に快感と満足を感じる「利己心amour-propre」に変質してはいない。このような利己心を生み出す原因はもっぱら社会にある。人間が自然に対する、そして自分自身に対する専制者となるのはこの利己心の働きによる。利己心は自然人が知らなかった欲求と熱情を人間の内部に呼び起すのみでなく、同時にそれを際限なく野放図に満足させる新しい手段を人間に与える。他人の口の端にのぼりたいという競争や、他人よりも抽んでたいという情熱は、いずれもわれわれの自己疎外の絶えざる原因となる(26)。 だが一体この疎外作用はあらゆる社会の本性に根ざすものであろうか。権力や所有欲や虚栄などの動機をもはや必要とせず、義務的・必然的なものと内心から承認される法則にのみ全体が服従するという基盤に立つ、純正な、そして真に人間的な共同体は考えられないであろうか。これがルソーが『社会契約論』で提出して自ら答えようとした問題である。今までの社会の強制形態が崩壊してその代りに政治的・倫理的な共同体が、すなわちそこでは各成員がもはや他人の恣意には隷属せず、成員各人にとって自己のものと認められる一般意志のみに服従する共同体の新しい形式が出現する段階で、初めて人間解放の時は到来するにちがいない。だがわれわれはこの救済を外部に期待しても無駄である。神が救済をもたらすのではない。人間は彼自身の救済者に、そして倫理的意味において自分の創造者にならなければならない。今までの形態の社会は人類に非常に深い傷を負わせてきたが、変形と改革によってこの傷を癒すもの、そして癒さなければならないものも同じく社会なのである。