オルテガ
モダニズム絵画批判の書であり、当時、内戦以降に「芸術を再び人間化」する必要が声高に主張されるようになると、「非人間化」された芸術の筆頭として念頭に置かれていた芸術家はピカソとフアン・グリスだった(あくまで当時の批評空間にて)。 モダニズム芸術への批判
オルテガがこの論考において主題とするのは、ドビュッシー以後の音楽、マラルメ以後の詩、表現主義・キュビスム以後の絵画、すなわちいわゆる「新芸術」である。彼は、一九世紀の芸術と比べて「新芸術」が「本質的、宿命的に不評〔非大衆的〕(impopular)」である点に着目し、その理由を次の点に求める。 私はここで、純粋芸術(arte puro)が可能か否かを論ずるつもりはない。(...)〔だが〕たとえ純粋芸術が不可能であったとしても、芸術の純粋化への傾向がありうることには全く疑問の余地がないであろう。そしてこの傾向は、ロマン主義や自然主義の作品に支配的であった人間的要素、あのあまりにも人間的な要素を徐々に排除していく形を取るであろう。そしてその過程において、作品における人間的な内容がほとんど見えなくなるときが到来することであろう。そのときわれわれは、芸術的感受性という特殊な能力を持った者のみが知覚しうる芸術作品を持つこととなろう。(...)新芸術は芸術的な芸術(arte aristico)なのである。 すなわち、オルテガは一九世紀的芸術が、芸術外の「人間的事象」を描写するものであるために、本質的にはすべて「写実主義的」であったのに対し、「新芸術」がこうした描写に重点を置かず、むしろ、「芸術作品そのもの〔すなわち芸術作品の媒体性〕に注目する」ようになった事態に留意し、こうした事態を「純粋化への傾向」と呼ぶ。「純粋化の傾向」とは、芸術が「人間的なもの」という芸術以外のものとの「境界線が判然としていないことに反発」を示し、芸術でのみあろうとすることである。この意味において、芸術の「純粋化の傾向」は「芸術の脱人間化」にほかならない。
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1937 フランス人のための序文
一 スペイン人のために書かれたことの重要性
読者が不当な期待をもって本書を読まれないようにお願いしたい。つまり、ここに書かれていることが、マドリードのある大新聞に連載された一連の論説にすぎないことを銘記していただきたいのである。私がこれまでに書いてきたほとんどすべてのものと同じように、これは巡り合わせにより私の周囲に居合わせることになったスペイン人のために書かれたものである。
ではなぜオルテガはフランス人に対しての序文にて、あえてこのようなことを記したのか。それはオルテガが根源的に抱く言語の有限性に位置する。たとえばそれは嘘の存立条件にて示される。言葉とは第一に我々の考えを他者へと伝える表現手段として現れる。それすなわち自らのうちに誠実な手立てとして成立するのだ。ゆえにそれは嘘の根ざす基盤となるとオルテガは言う。
さらにオルテガは「これはとりもなおさず、すべての者に向かって話し、誰に対しても話さないということである。私はこのような話し方が嫌いであり、誰に向かって話しているのか判然としないときには心の痛みを感じるのである」とする。それゆえにスペイン人に書かれたとそれを第一に記すことが重要なのだ。しかし、言語の有限性とはいかに説明するのか。オルテガは云う。
定義というものは、それが本当らしく見えるときでも皮肉なものであり、暗黙の留保をそっと秘めている。したがって、定義をそのようなものとして解釈しないと、忌まわしい結果を生むことになる。(...)言葉は考えを表現するという定義の最も危険な点は、それにまつわる楽観的要素である。(...)隣人に到達するための努力のなかで言葉のなしうることは、われわれの心のなかに起こるもろもろのことの幾つかを、ときとして、比較的正確に表現できるということであり、それ以上ではない。しかし通常、われわれはこうした留保があることを無視している。それどころか、人は自分の考えていることをすべて言い得ると信じるがゆえに、話し始めるのである。これが幻想なのだ。
したがって本序文の冒頭でオルテガは、スペイン人から「対象を変えた今、私の言葉がその意味するところをフランス人に伝達することが、いったい可能だろうか?」と懐疑の念を浮かべるのだ。したがって我々は本書を読むとき、ひいてはあらゆる翻訳書を読むとき、それは自らのために書かれていないと理解せねばならないし、言語の有限性に阻まれていると理解しなければならない。言語という伝達性の楽観視、欺瞞、過信。こうしたものへの懐疑を畏敬の念をもってしてはじめて非二十世紀スペイン人は本書へと向かうことができるのである。
四
人は時代が直面する問題に取り組む義務がある。これには疑問の余地がない。そして私は生涯を通してこの義務を果たして来た。私はつねに時代の弁護に回ってきた。しかし近ごろよく人びとが口にすることの一つに―「時流」―ということがある。これは明晰なる知的活動を犠牲にしても、すべての人が厳密な意味における sensu stricto 政治に参加しなければならないということである。もちろん、他に何もなすべきことを持たない連中がそう言っているのである。しかも彼らは、パスカルから「愚鈍化」 abêtissement という至上命令を引用して、その立場の強化を図っている。しかし私は、誰かがパスカルを引用したら用心すべきだということをかなり前に学んでいる。それは、精神衛生の基本的な注意なのである。全面的な政治運動、つまりすべての物事や、すべての人びとを政治の内に吸収してしまうことは、この本で述べている大衆の反逆という現象とまったく同じことである。もっか反逆している大衆は、宗教心や認識力をまったく喪失してしまった。大衆が自己の内面に持つことができるのは、ただ政治だけである。つまり、知識や宗教や知恵 sagesse―要するに、その実質から人間の精神の中心を占めることのできる唯一のものにとって変わろうとするあの途方もない、熱狂的で、我を忘れた政治だけなのである。政治は人を孤独と親密さから解放する。それゆえ、全面的な政治運動の布教は、人を社会化するのに用いられる一つの技巧である。 芸術が人間の生全体の大転換の時系列的に最初の兆候であるという特性を訝しむことはない。既に何度もこのようなことは起こってきた。なぜなら歴史的地平が変化する時、来るべき時代から最初に到来するのは、新しい美的態度なのだから(...)。人類の深い胸中で生の根本的変化が芽吹くとき、それが最初に顕在化するのが芸術の精妙な領域だということは理解できることである。私たちの存在のそれ以外の全ての活動一宗教、済、政治、科学一は容赦のない責任性を背負わされている(...)。芸術はそれに対して、人間の有する唯一の無責任で、非現実的な領域なのである。