アポリネール
自然と芸術、模倣から創造へ
大いなる詩人や大いなる芸術家の社会的な役割とは、つねに自然が人間の眼にまとう姿を刷新し続けることである。詩人も芸術家もいなければ、人間はすぐに自然の単調さに飽きてしまうだろう。彼らが抱く宇宙への崇高な観念は、めまいを覚えるほどの速さで失墜してしまう。自然のうちに見いだされる秩序―それはじつは芸術の効果にすぎないのだが―もまた、たちまち霧散してしまうだろう。そうなれば、すべては混沌のうちに崩れ去る。季節もなく、文明もなく、思考もなく、人間性もなく、生命すらなくなり、無力な闇が永遠に支配することになるのだ(Les grands poètes et les grands artistes ont pour fonction sociale de renouveler sans cesse l'apparence que revêt la nature aux yeux des hommes. Sans les poètes, sans les artistes les hommes s'ennuieraient vite de la monotonie naturelle. L'idée sublime qu'ils ont de l'univers retomberait avec une vitesse vertigineuse. L'ordre qui paraît dans la nature et qui n'est qu'un effet de l'art s'évanouirait aussitôt. Tout se déferait dans le chaos. Plus de saisons, plus de civilisation, plus de pensée, plus d'humanité, plus de vie même et l'impuissante obscurité régnerait à jamais)。
では如何にしてキュビズムは自然と相対するのか。その最も古典的な姿勢こそプラトンであり、自然の模倣としての芸術という地平である。そしてアポリネールはキュビズムにおいて、そうした模倣としての芸術は終焉し、創造としての芸術に移行すると論じるのだ。 キュビスムを旧来の絵画と分かつものは、それが模倣の技術ではなく、観念の技術であり、さらには創造にまで高められようとする技術である、という点にある。構想された現実、あるいは創造された現実を表すとき、画家は三次元的な外観を与えることができる。いわば、立方化(キュビック化)することが可能なのだ。単に「見られた現実」を写すだけでは、それは不可能である。せいぜい騙し絵(トロンプ=ルイユ)や透視図法による短縮表現にとどまるだろう。だがそれでは、構想された、あるいは創造された形態の本質的な質を損なってしまうのだ(Ce qui différencie le cubisme de l'ancienne peinture, c'est qu'il n'est pas un art d'imitation, mais un art de conception qui tend à s'élever jusqu'à la création. En représentant la réalité-conçue ou la réalité-créée, le peintre peut donner l'apparence de trois dimensions, peut en quelque sorte cubiquer. Il ne le pourrait pas en rendant simplement la réalité-vue, à moins de faire du trompe-l'œil en raccourci ou en perspective, ce qui déformerait la qualité de la forme conçue ou créée)。 絵画とは三次元的なものを二次元的なものへ押しこむ営みである。したがって、そこには消極的なリアリティの縮減が生じる。では如何にしてそうした失われたリアリティ、三次元的なもの、自然の本来性を芸術として可能にするか。それこそが「立方化(キュビック化)」なのである。アポリネールは云う。「そして自然を模倣するのは、写真家に限られた営みである(Et les photographes seuls fabriquent la reproduction de la nature)」。アンドレ・バザンは映画という技法をもって「外部世界のイメージが人間の創造的干渉なしに自動的に形成されるというのは、これが初めてのことだった」とするが、まさにこうした写実主義の系譜に写真とは位置づけられた。模倣としての芸術は、絵画、写真、映画と移りゆくのであり、その玉座をあけ渡した絵画は新たな使命を求め、キュビズムに至るのである。ではキュビズムがこうしてまで獲得せんとしたリアリティ、三次元的なもの、自然の本来性とはなんたるか。それこそがイデアなのだ。 これらの画家たちは、まだ自然を観察してはいるものの、もはやそれを模倣することはない。そして注意深く、観察や研究によって再現された自然の情景の描写を避ける。写実性はもはや何の意味も持たない。なぜなら、すべては画家によって、発見するのではなく仮定する、より高次の自然の真実や必然に捧げられるからである。(Ces peintres, s'ils observent encore la nature, ne l'imitent plus et ils évitent avec soin la représentation de scènes naturelles observées et reconstituées par l'étude. La vraisemblance n'a plus aucune importance, car tout est sacrifié par l'artiste aux vérités, aux nécessités d'une nature supérieure qu'il suppose sans la découvrir)。(...)こうして我々は、まったく新しい芸術へと向かうことになるだろう。それは、従来の絵画がそうであったように、文学に対する音楽の関係に似たものとなる。すなわち、絵画そのものの純粋さを追求する絵画であり、音楽が文学の純粋さであるのと同様のものなのである。(On s'achemine ainsi vers un art entièrement nouveau, qui sera à la peinture, telle qu'on l'avait envisagée jusqu'ici, ce que la musique est à la littérature. Ce sera de la peinture pure, de même que la musique est de la littérature pure)。(...)極端な学派に属する若い画家たちの密かな目的は、純粋な絵画を生み出すことである。それは、まったく新しい造形芸術である。まだ始まったばかりであり、理想とするほど抽象的にはなっていない。多くの新しい画家たちは、自覚はないにせよ数学的な構造を確かに扱っている。しかし、彼らはまだ自然を捨ててはいない。自然に辛抱強く問いかけ、それによって人生の道を教わろうとしているのだ(Les jeunes-artistes peintres des écoles extrêmes ont pour but secret de faire de la peinture pure. C'est un art plastique entièrement nouveau. Il n'en est qu'à son commencement et n'est pas encore aussi abstrait qu'il voudrait l'être. La plupart des nouveaux peintres font bien de la mathématique sans le ou la savoir, mais ils n'ont pas encore abandonné la nature qu'ils interrogent patiemment à cette fin qu'elle leur enseigne la route de la vie)。
この地点において真の意味で模倣から創造へというパラダイムを理解できる。すなわち、模倣という過程で失われたリアリティ、自然の本来性、ひいては純粋性と呼べるものを獲得し、それをキャンバスに描くには、写実的な真実らしさなどといった模倣の産物に頼るのではなく、純粋性それ自体を分析し、創造しなければならない。したがって、彼らはわたし達に与えられた認識という表象以上に、対象の純粋形象、イデアに接近せねばならないことを意味する。それは模倣の位相をずらすことで新たなパースペクティヴを「発見」し、「自然が人間の眼にまとう姿を刷新」することではなく、「より高次の自然」を創造することで「自然が人間の眼にまとう姿を刷新」することなのである。
そしてその結実こそ「立方化(キュビック化)」なのだ!
ピカソ論
『サド公爵作品集』序文