非公開プロジェクトを一元化したが、思考の場は一元化されていない
旧題:Scrapboxの一元化&思考の場の一元化
経緯
所感
公開と非公開で迷ったことはなかった
そういえば非公開プロジェクトは最初複数作っていて紆余曲折を経て1つにまとめたのだった
現在完全にすっきりしているかというとそうでもない
自分の現状
Scrapboxのプロジェクトについて
1. 公開① のらてつ研究所(ここ)
2. 公開② 他の名前として使っているもの
3. 非公開
「思考の場」について
1. のらてつ研究所
2. Obsidian
3. Transno(アウトライナー)
※ツールの役割分担について書いたページ
公開と非公開について
私の中では境界ははっきりしている
このように
非公開:○○という名字で△△という名前の自分、の趣味嗜好・思い出
公開:のらてつという名前に関連付けたい情報群
具体的には
○○△△が食べたもの読んだものetc.は、のらてつとして言及する必要に迫られない限り、のらてつに関連付けて公開することはない
のらてつのTwitter(@Foam_Crab)で○○△△の個人的な話を世間話の延長として話すかもしれないが、それはScrapboxの公開プロジェクトであるところののらてつ研究所には収録しない
自分の個人的な話を通してのらてつとして言いたいことがあればその限りではない
オルターエゴを意識している
別人格を演じているわけではないが(○○△△とのらてつは同じ価値観で同じ性格)
○○△△に付随する情報と、のらてつに付随する情報は違うものとしている
多くは○○△△情報の部分集合としてのらてつ情報があるが、のらてつ-○○△△の差集合も多少存在する
他にもオルターエゴがある
プロジェクトの一元化について
よって私の中では公開と非公開は「人格」によって最初から分かれているとして
一方非公開プロジェクトは一元化に時間がかかった、なぜか?
分けたかったから
自分の家の中で、この部屋はこの用途に使おう、という分けたさ
一つのプロジェクトにまとめると無秩序に混在してしまう気がしたから
タグ・リンクを適切に使えなければ実際に無秩序に混在する
Scrapboxに習熟することによって乗り越えられたこと
結局は一元化した、なぜか?
複数のプロジェクトに通っていられるほど暇じゃなかったから
忙しいという意味ではなく、そういう使い方をする趣味はなかったということ
無秩序に混在している感をなくすことに成功したから
混在はしているが、自分なりの秩序がある
タグ付けによる階層化
フォルダのイメージではなく、ネストされたタグによって分類するということ
分類というか、「これはこの属性です」のラベルをぺたぺた貼ったということ
これってなんとなく「分類」とは違うイメージではありませんか?
横断できるようになった
「横断」するためには、その両者にそれぞれの体系がなければ成り立たない
複数の体系が、相互に自由に行き来できる状態で存在していることによって、その間で横につながることが可能になる
つまり「プロジェクト」の認識が変わった
「個別の部屋」から「自分の家」に
なお、公開プロジェクトは家から出た仕事場みたいなものとして私の中で区別されている
「各国」から「○○連合」に(あるいは「地球」「宇宙」「世界」に)
Scrapboxの一元化によって思考の場も一元化されたかというと
それはそうではない(ので、ちょっと混乱している部分がまだある)
というか、非公開プロジェクトには今はもうあまり思索の類は入れていないので、そこの統合は大して思考の場の統合に関与していない
最初は非公開プロジェクトに思索を入れていたので、その発掘と処理は今も続けてはいる
移し替えて撤去していく一方
現状(再掲)
1. のらてつ研究所
2. Obsidian
3. Transno(アウトライナー)
何に困っているかというと
思索の見せたさと見せたくなさはグラデーション且つ横断的
見せたい思索と見せたくない思索が、同じ土台の上に存在している
行き来したいが、同じ場には置けない
見せたくなかった思索が、あるところから見せたい思索となる
これはわたくしの思索である、と言えるところまで到達するなどして
逆に、見せたかった思索が、あるところから見せたくない思索となる
これ以上は大事すぎて安易に公開してはならないぞ、と感じるところまで到達するなどして
Scrapbox内、Obsidian内のリンクのスムーズさを知っているがゆえに、他ツールとの横断がスマートでない感じがしてくる
どれかに統合したいという気持ちは常にある
しかし上述の通りそれはちょっと無理な話である
ツールの活用頻度が一定していない
Obsidianばかり使っている時期もあれば、Transnoしか使っていない時期もあり、Scrapboxも開いたり開かなかったり
PCとスマホのバランスが安定的でない
生活上やむを得ない部分もある
単に気持ちの問題としてそうなる部分もある
思考の場は一元化しなければならないのか、と問い直してみる
しなければならないも何も、そもそも不可能である、という気持ち
公開する領域を作ろうとする限り
つまり、一元化するならば、すべてを非公開にするほかないのかもしれない
一元化しないとすれば、複数の場の間に線は引けるだろうか
それもまた不可能である
というか、「場」に線は引けるが、その場を行き来する思索には線を引けない
よって、線を引かれた「場」に、線を引くことのできない思索が行ったり来たりすることをどう受け入れるかという問題と言える
ScrapboxとObsidianとTransno(と更にブログやnote)を行ったり来たりすることをどうスムーズにしていくか
なお、コピーして同期するのは手間の問題で継続できなくなっていく
関連するであろうこととして、場が違うと育ち方が変わるから同期させる必要自体がない、という話があった
たしかこのうちあわせcastで倉下忠憲さんがなさっていたお話
ここでの文脈は「個人のプロジェクト」と「共同編集のプロジェクト」の間でのことだが
役割分担なのか、ツール全体をひとつの系の中のものとして一体に感じるように自分の意識を作っていくのか
全部を楽しく使っていれば全部が自分の一部として馴染み、行き来に違和感を覚えなくなるのでは
ツール間で馴染み度に差があるとうっすら違和感が発生し始める気がする