自分にすごいところがないような感じがする、
世の人々にすげーと思うことはしばしばある
例えばScrapboxユーザーで身近な人(と私が勝手に思っている人)は
思考をAtomicにする能力がすごい
すげえ
(全くできる気がしなくてチャレンジしたこと自体がない門外漢なのですごい人達のすごさの差が認識できないからstaさん固有のすごさはわからないけどとりあえずすごいことはわかる)
教養を感じる
特に短歌の話が専門的だなと思うけどそれ以外も引き出しが色々ある印象
長年の蓄積(あるいは集中的な探究)がないとできない
知識の量もさることながら、「これが好ましい」と判定できるところに経験に支えられた美意識を感じる
(距離が遠い人を書き始めると自分の観測範囲とかがもろに表れてしまうのでやめておこう)
「すごい」とは何か
一点特化のすごさ
職人芸とか
絶対的に他の追随を許さない
多芸多才のすごさ
一日三十時間くらいある???と言いたくなるような幅の広さ
仕事にしているものと関係ないようなことで努力や才能を感じると「すごい!」と思う
その世界で一位とかじゃなくても普通にすごい
人生の広がりを感じる
境界を渡るすごさ
関係ない物同士を結びつける能力
別個の人間の間を橋渡しする能力
潤滑油のプロみたいな(?)
自分は🤔
うーん……
何もないのでは
なんだろう、「全て平均点以上を取る」みたいなことはできるんだけど
何かに注力するということ自体ができないんだよなあ
関心が薄すぎて広すぎる
仮に絶対に平均以下に落ちないという能力があったとしても、共同体の規模が一定以上に大きければそれはマジで何の役にも立たない
すごい人でなければならないみたいな意識が途中でなくなったので「自分には何もない…自分に生きる価値なんてないんだ…」というような悲観は今はしていないけども
すごくなければならないとは思わないけどすごいところがないと悲しい、みたいな
語れることがないという「狭さ」を感じている
語れることがないから自分の個性がわからないんだな
考えてみても自分は何と名乗れるかわからない。
4ヶ月で何も成長していない!
自分の中に言語化できない領域を絶対に残したくないみたいな強迫的な欲求は特異と言えば特異なのかもしれない
そういう人あんまり見たことないというか
でも欲求は個性的でもそれは別に「すごい」にはならない
結局のところ困っていること
語れることがない
正確には「自分語り」以外にない
まあ自分語りのプロ(?)になるのが注力可能性的な意味で一番現実的なのだろうが
日々の充足感を得られる機会が少ない
趣味はなくもないけど「これが自分の支えになっているんだよなあ!」と思うほど注力できるものがないので、メンタルが不安定になるとかなり危ない
元気なうちは「下手の横好き」でもいいんだけど、自己肯定感が削られている時には客観的に価値を感じる何かがないと結構辛い
結局は社会に生きているので
メンタルが不安定にならないように自分で自分を守る術というのはあるけど、その術では間に合わず実際メンタルが不安定になってしまえば開き直りとかできる状況にないので「自分で自分を認められればいい」みたいな話は通用しなくなってくる
私は物事の解釈を変えることで精神的な危機から一応脱したけど、しかしそのためのエネルギーは「数字で見える形で評価を得た」という体験によって生まれている
解釈の変更を信じるにはエネルギーが必要
数字以外なら医者やカウンセラーに背中を押してもらうとか
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ストイックへの憧れ
めっちゃわかります
でも実際ストイックになりたいかというとそうでもない…
毎日何かに注力し続けられることを素晴らしいことだとは思っているし、そうでない自分を漠然と「足りていない」というふうに感じるが
ある情報を知らない人が多ければ、その情報の価値は高まるのではないか
これも発信の動機としてすごくわかる
実際重要な感覚だと思う
割と最近もそんな感じのことを書いたような
各段階で相対的に情報を多く持っている人が発信するから最先端から一般市民まで広く滑らかに情報が繋がっていく
最先端にいる人たちがみんなわざわざ身近な人に発信するとは限らない
「この集団でなら自分の話は他人にとって価値があるだろうし聞いてもらえるに違いない!」という欲求で動くことが、結果的に世の中のためになる
読書猿さんが最近そういう話をしていたような
他者から見て特異であるものが、自分の評価で「すごい」となるとは限らないというか、まあならないのではないか。
まあそれはそうですよね
「すごいところがない(気がする)」と、「(周りから見れば)すごいところはある」のギャップを埋める効果的な方法を探る必要があるかなと思います
主観的に自分ですごいと感じられる点がないことと、客観的にすごいと思われる要素を自分で知らないことは違う