創造できることより工夫できることに対して自分の主役性を感じる
※「主体性」と書いていたがちょっと違うので「主役性」と無理に言い換えた(他にドンピシャな表現がありそうでならないけどパッと思いつかない)
クリエイトよりカスタマイズの方がむしろ主役として生きている感覚になる
イチから自分で作る(例えば物語を創る)ということもしていないわけではないが、そういう創造が気持ちとして主人公的かと言うとそうでもない
「自分仕様」であることより、「世の中で通用するものかどうか」が気になってしまうからかも
発表した時に価値あるものとして評価され得るか否か、を考えてしまう
自分の手による創造だが自分のための創造ではない
一方、例えばリフィルを自作したりCSSを書き換えたりするような工夫は、土台となっているものは誰かの何かであり、自分がやっていることは「プラスアルファ」でしかない
他の人が完成品として作ったものに、更に敢えて何かを加える、敢えて何かを変える、というのが、ある種「既存のものを破壊してでも自分仕様に曲げる」かのような強い主役性を感じる
創造は他人の人生に自分の発想を侵入させようという試みだが、工夫は自分の人生に他人の発想を組み込む試みか
ただ自分の生活に組み込むだけでなく、自分仕様にしてしまうということ
自分の形を知らなければ自分に合わせることもできない
自分の形さえ知っていれば自分の思い通りに曲げられる
(「思い通り」のためには閃きと技術は必要だが)
とはいえ工夫も創造であり、対比で考えるには境界が曖昧(というか境界はない)
イチから創るか、途中から創るか
途中からの方がイチから創るよりうきうきできるというところが面白い
でもこれ、単に面倒くさい基礎部分をやってもらって美味しいところだけ手を加えられるからというだけかもしれない
技術的に自由自在になれば話が変わってくるか
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