「愛」とは何か
経緯
を元にぼんやり思ったこと
🤔
「愛」とは何か、という書き出しにするとなんか立派なことを書くかのようだが…そんなことはなく
少なくとも「誰かに対する広くて深くてキラキラした気持ち」みたいな雰囲気の話ではない
「愛的なもの」「愛っぽいもの」「いかにも『愛』なもの」は若干虚構を感じる
瞬間的に発動することがあっても、ずっとその気分を抱き続けることは難しい
そういうものは得ようとするのも知ろうとするのもあまり現実的ではないような
そういう色合いの「愛」を愛として抱くかどうかは、もはや個々人の性格の問題では
「失ったら生きていけない」というほどのドラマ性は必須のものではないと思っている
そのぐらい強くてもいいし、そこまで強くなくてもいい、というような
「エモ」と切り離して考える
私の場合は、「意識を向ける」且つ「そこに悪意がひとつもない」くらいの意味で捉えている
「意識を向ける」はここでは「気持ちを向ける」の意味ではない
「私が」どう思うか、ではない
「あの人が」「この物が」どうであるか、を想像していくこと、または確かめていくこと
想像したり確認したりした結果良い気分になるのには自分の個性が反映されてはいるが、あくまで主語は相手
物に対する愛着、手入れをしようとする気持ち
この物はここがこうなっているのだなあと眺めようとすること
プログラムのコードに熱心に手を加え続けているとすれば、それはそこに愛があるということ
他者に対するしみじみとした「良い」という気持ち、言動を追えば気分が良くなる状態
相手について新たな情報が増えると嬉しいということ
相手自身が「知ってほしい」と思っている範囲内で
それを超えてプライバシーを侵害するストーカー行為は道を外れている
相手がそれに嫌悪や恐怖を抱くであろうことに意識が向いていない
恋心と線を引くのは現実的ではないが、相手からの自分に対するアクションや心を要求するのはとりあえず私の思う愛ではない
想像と確認を継続したくなるものであって、「こういう人だ」と決め込んで「だから好き」と結論づけようとするのもなんか違う
自分自身を理解しよう、世話しようとする気持ち
私はこれが好きなのだなあ、私はこういう時間が楽しいのだなあ、を自己観察して知ること
自分なりの「良い状態」を自分に用意しようと心がけること
反対の状態がセルフネグレクト
所謂「自己愛」は言葉のイメージとして違う
「自己愛性パーソナリティ障害」というのもあるし…
「悪意を持たずに意識を向ける」ということが大事だと私は思っているが、なぜ大事か
人間として活性化するから
情報量が増えて世界の解像度が上がる
より望ましい選択をしやすくなる
「愛情深い人」は、別に「博愛主義」とかではなく、想像力に富んだ真摯な人ということだと思う
他者の人生を害することが減るから
他人に対して想像と確認をしないなら、必然的に対応に失敗する確率が上がる
多くの場合、誰かから害されることによって、その恨みを返そうとしたりコミュニケーションを断とうとしたりということになる
他人の人生を害した場合、巡り巡って自分が害される可能性も高まる
「お金」とどっちが大事?という問い
なんでそこが比べられるの?
「どっちも大事」以外にある???
「世界一の富豪になること」と「世界一愛し愛される人間になること」の比較なら考えようもあるが
少なくとも今の日本の庶民に聞いたら「愛が無いこととお金が無いことのどちらが深刻?」という解釈しか生まれそうにない
どっちも「無い」のは深刻に決まっておろうが
伝統的なキリスト教的視点を感じる
今のキリスト教がどうかは別として(よく知らないので)
お金が汚いかどうか(愛と対立するかどうか)は「使い方」次第だというのが過去の日本では常識であったような気がするが果たして
ちなみに…
対人にしろ対物にしろ、性欲とは分けたい気持ちがないではないが、分けられるかというと微妙
「エロス」を感じて惹かれるというのには愛があると思う
「ヤりたい」よりも広い範囲というかなんというか
広さの問題なのかどうかもわからないが
というか、「ヤりたい」には支配欲や征服欲や自己顕示欲とかの実質性欲でないもの?がしばしば交じっている
割合で言ったら男性が多くなりそうとは思うけど別に男性の話をしているわけではないです
女性もそう
まあなんであれ「蹂躙したい」というのでなくひたすら「愛でたい」「一体化したい」という気持ちであるのなら私の中では愛になる
そこに相手を観察して「正解を確認したい」と思う心があること
相手にとっての「良いこと」を想像して叶えようとする心があること
性欲がないから良い、美しい、という話でもない
そもそも動物なので…
しかし性欲または何かしらの性的なニュアンスを伴う美こそが至高という話でもない
あってもいいしなくてもいいという意味で性欲の概念とは分けて考えたいというかなんというか
そこら辺は好みの問題だと思う
性欲が無い人間からすれば性欲基準で語られてもという話になってしまうし
そもそもの話
ここに書いたのは「私は、愛とはこういうものと解釈して生きている」でしかない
他の人の「愛」の定義に必ず納得できるわけでもない
「愛とは何か」は、「生きる」ってなんだろう、くらいの無理さのある問いだなと思う
人それぞれである ~完~
になってしまう
しかしとりあえず、相手の実像を知ろうとする気のない「愛」が「愛」として成立するものなのか疑わしいという気持ちはある
何の欲で動いているのか?