▽読解力は「像を作る」と「ピースを判別する」の両輪である
(ツイートそのものは削除しました)
nora.iconそういえば学生時代現代文がしぬほど苦手っていうか、何をやっているのかよくわからなかった。が、今はむしろ生活の大部分が現代文的になっている。人生の転換点は、「私のことを書いている(ように思えた)文章」を大量に摂取したことだろうなと思う。 nora.icon物語以外で「まだ自分がいない世界の話」を読んでいけるかどうかは、半ば先天的な才能ではないかと思ったりする。「既に自分がいる世界の話」を自由に読めるようになってから、そこで習得した読み方を応用してようやく「まだ自分がいない世界の話」に挑んでいくことができるようになる人もたぶん多い。
nora.icon当時の現代文の意味わからなさというのは、言い換えれば「有機的に認識して何らかの像を見出す」ということが一切無理だったということなんだけど、今では別に抽象的とも思わないことが、当時は全てが抽象的で高度だった。自分から離れたところで行われているものと感じていた。
nora.icon現代文以外で困ったことはあまりなかったので、言葉が扱えなかったわけではないし、語彙が不足していたのでもない。「何かを論じている」ということ自体が自分から遠かったんだろう。名詞の説明および説明された名詞の組み合わせで理解が成り立つ他の教科とは、根本的にやっていることが違っていた。
nora.icon他の人がどうかはわからん! 私の話をしているだけです。
nora.icon自分の中に像を作っていかなければならない、ということがわからなかったんだよな。だから読んでも読んでも読んだ内容を頭の中に保存しておけず、目は滑り虚無感が背を覆う。ジグソーパズルのつなぎ目の形を判別する力しかない状態で、まず絵全体を想像しろと言われて途方に暮れたのが現代文であった。
nora.icon絵の想像って何!?個々のピースの形しかわからないんだけど!?という。昨今よく指摘されている、読解力がまるで無い「目に入った単語の組み合わせだけで内容をでっち上げる」タイプの読み方というものが、正直なところよくわかる。「像を作っていく」という概念がなければそりゃそうなるのじゃ…。 nora.icon読解力が少ししかないとか基準に届いてないとかではなく、「無」だったんですよね。概念が無いので。「無」です。今はどちらかといえば有るほうではないかと思うけど、転換は奇跡的だったな。(大きな代償を支払いました。)
nora.icon一方で「像は作れるが、(常に)正しくない」というのは、読解力の程度の問題として考えていいのか、それとも「それはもはや無いも同然である」ということなのか。ジグソーパズルでいうと、絵は何かしら思い描けるけどピースの形を認識できなくて無理やりはめ込んでる状態っていうか。
nora.icon要は、「像を作る」「ピースを判別する」の両輪であって、となると結局「全体の認識」と「部分の認識」の両方ができなきゃ駄目よねという至極当たり前の結論に至ってしまうのであった。
nora.icon「部分の認識」に全振りしたことにより、テストを受ければ秀才だけど読解力は「無」ということもあり得るし、「全体の認識」に全振りしたことにより、口を開けば立て板に水だがやはり読解力は「無」ということもあり得て、更に両方欠いている場合もあるだろうが、それぞれ処方箋は違うのかもしれない。