▽知的生産を掴むには意識を向け続けるしかなさそう、
(ツイートそのものは削除しました)
nora.icon「高度すぎる」という感想は、使われている語彙の馴染まなさと、「普通、言葉で説明しないもの(言葉以外でも説明されないものを含む)」を説明されている抽象っぽさ(実際に抽象的であるかとは関係なく)に対して生じることが私の中では多い。外国に行ったら言葉がわかるまでにしばらくかかる的な。
nora.iconしばらくかかると言ったらしばらくかかるので、時間的に短縮する術はほとんどない印象。その世界に対してどれだけ意識を向け続けたかの総量(と、根っからの相性)で馴染み度合いが変わる感じ。意識を向け続けさせる手助けならできるかもしれない。
nora.icon何をどうやっても理解が劇的に簡単になることはないが、理解しようと試みる時間が減れば減るほど理解から遠のくので、「もうちょっとで理解できそう!」を感じさせ続ける手助けというか。
nora.iconたまたま「もうちょっとで何かを掴めそう」と思い続けられた人が自由を得ている感。何事も。
nora.iconどこに「もうちょっとで理解できそう」が途切れるポイントがあるのか、というのが「飛躍」ということになるのかなと思いました。実際に理解できるかどうかはあまり関係なく。
nora.icon自分なりに知的生産に対して自由になっている人たち、今読んでもなんかよくわかんねーと思うような本や記事からそれでも「何かが掴めそう!」とたまたま感じられたことによって、結局他人の記述はよくわかんねーままでもいつの間にか何かしらはわかりだして何事かを語りだしているという感じがする。
nora.iconその「たまたま」を如何にして「必ず」に近づけるか、というのが課題のように思えるけど、「わかりやすい○○」「図解○○」的なものは必ずしもそれに貢献しているわけでもなく、一方「馴染まない言葉である」というだけで致命的にハードルになる場合もあり…。
nora.iconあと「何かが掴めそうと感じる」と「わかったつもりになる」の間に果てしなく距離があるのも非常に難問🤔 まだわからないのにわかりそうな気がするというだけでわからなさに耐えられるというのは、もはや基礎体力の話になってきそうでもあり。