Skin in the Game: Hidden Asymmetries in Daily Life
public.icon
#読書ログ
https://scrapbox.io/files/65b75ca621c7a90024b6a421.JPG
身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質 | ナシーム・ニコラス・タレブ, 望月 衛, 千葉 敏生 |本 | 通販 | Amazon
リスクを負わぬ者、意思決定にかかわるべからず
干渉屋たちがいつまでたっても学習しないのは、ヤツらが失敗の被害を被っていないからだ。「痛みは学びを助く」で示唆したとおり、リスク転嫁のメカニズムは、学習も妨げる。もう少し実践的な言い方をするなら、相手が間違っていることを言葉で完全に納得させることはできない。それを思い知らせることができるのは、現実だけ。いや、正確にいえば、現実は議論に勝とうなどとは思っちゃいない。重要なのは生き残ることだ。つまり、現代性の由々しき側面とは、理解するよりも説明するほうが得意な人間がうじゃうじゃと増殖しているという点だ。
身銭を切らないかぎり、進化は起こり得ない。
一般的に、人は神聖なる国家(または大企業でも同じ)を崇拝すればするほど、身銭を切ろうとしなくなる。自分の予測能力を信じれば信じるほど、身銭を切ろうとしなくなる。スーツとネクタイを着れば着るほど、身銭を切ろうとしなくなる。
否定の道
まずは誰にでも優しく接しろ。でも、相手が力を振りかざそうとしてきたら、こっちもやり返せ。
アドバイスが間違っていた場合の罰則が存在しない限り、アドバイスを生業としている人間のアドバイスは真に受けるな。
何かを作ること(エンジニアリング)よりも、作られたものを見てその作り方を再現すること(リバースエンジニアリング)のほうが難しい。進化の力が作用した結果を見て、その力を再現することは不可能だ。因果関係が不透明だから。進化の過程は前進させることしかできない。しかし、「時」の作用や不可逆性が成り立つためには、身銭を切ることが必要不可欠だ。
逆問題:何かをやることよりも、結果を見てそのやり方を理解することの方が難しい
身銭を切るという行為は、個人と集団の両方のレベルで、ブラック・スワンのような不確実性の問題を解決するのに役立つ。要するに、今まで生き延びてきたものは、ブラック・スワン的な出来事に対する頑健性を示している。しかし、身銭を切るという行為がなければ、そのようなフィルタリングのメカニズムは働かない。身銭を切らなければ、「時の知性」(リンディ効果の一種の表れ。⑴ 時は脆いものを排除し、頑健なものを生き長らえさせる、⑵ 脆くないものの余命は時がたつごとに長くなっていく、という性質を持つ)は働かない。思想は間接的に身銭を切っているし、その思想を抱く人々も同じく身銭を切っている。
合理的なものとは、集団(長く生き続けなければならない実体)の生存を可能にするものである。心理学者や似非心理学者が言うのとは違って、テール・リスクを“過大評価”するのは、どういう基準から見ても非合理的ではなく、生存にとって総合的に必要なことだ。
職人は魂を捧げている。
ひとつ目に、職人は実存的な理由から仕事をしている。お金や営利は二の次だ。もちろんお金も重要だが、お金だけのために意思決定をすることは決してない。
ふたつ目に、職人の仕事にはある種の“技”がある。産業化のほとんどの側面とは距離を置き、職人技と商売を組み合わせる。
みっつ目に、職人は作品に魂をこめる。自尊心が傷つくので、欠陥品や妥協品は売らない。
よっつ目に、職人には侵すことのできないタブーがある。収益性が一気に上がるとしても、絶対にしない物事があるのだ。強力なタブーを定めることで、商品の神聖さを守る。
倫理のほうが常に法律よりも頑健である。法律が倫理に近づいていくはずであり、その逆ではない。したがって、法律は生まれたり消えたりする。倫理はずっと残る。
商取引の当事者の一方だけが結果に関する不確実性を抱えていて、もう一方が抱えていないという状態はあってはならない。
市場は市場参加者の総和ではない。市場価格の変化には、もっとも必死な買い手や売り手の活動が反映される。そう、もっとも必死な人々が市場を支配するのだ。
少数決原理
市場は小さな出口がひとつしかない巨大な映画館だと考えよ。出口ではく映画館の大きさに目が行っているヤツは間違いなくカモだ。
社会はコンセンサス、投票、多数決、委員会、退屈な会議、学会、紅茶とキュウリのサンドイッチ、世論調査によって進化していくわけではない。ほんの一握りの人々だけでも、針を不釣り合いなほど大きく動かすのには十分なのだ。必要なのは、非対称的な規則と、魂を捧げる人間だけ。そして、非対称性はあらゆるものに潜んでいる。
集団が効率的に機能するためには、個人が特異な(一見すると“非合理的”な)行動をとることがひつようなのかもしれない。また、“合理主義者”たちにとってはもっとも耳の痛いことに、個人が行き先を知る必要はない。市場が知っているから。人々を適切な構造のもとに置いておけば、あとはなんとかなるのだ。
組織というものはすべてその構成員から一定の自由を奪おうとするのだ。
では、そうした人々を支配するには? 条件づけや心理操作を使うという手がひとつ。また、相手に一定の身銭を切らせ、権力に逆らうと大きなものを失うということをわからせるという手がもうひとつ。同じことを、物質的な富を軽蔑している放浪修道士たちに対してするのは難しい。マフィア社会の戒律は実に単純だ。(入団の誓いをした)マフィアの構成員は、幹部に忠誠を疑われば殺される可能性すらある。そして、一時的に自分車のトランクへと押しこめられ、間違いなくそいつの葬儀にボスが出席する。ほかの職業では、身銭を切るという行為はもう少しさりげない形で行われることが多い。
雇われ人は、給与の安定性、つまり月末に必ず机の上に届けられる特別な封筒を愛している。その安定性を奪われた雇われ人は、母乳を奪われた赤子も同然。
だが、従業員を雇うのにはコストがかかる。仕事がない時期でも給料は支払わなければならない。柔軟性がなくなる。優秀な人材を探すとなると、もっとコストがかかる。お給料を愛する連中というのは、得てして怠け者だ。でも、こういうときに決して裏切らない。つまり、雇われ人が存在するのは、彼らが大きな身銭を切っているからだ。彼らは一定のリスクを負担している。そのリスクは、遅刻のような信頼に欠く行為に対して、十分な抑止力やペナルティとして働く。要するに、雇用主は信頼性を金で買っているわけだ。
そして信頼性は多くの商取引の原動力になる。金持ちは、ホテルやレンタルと比べて効率が悪くても、カントリー・ハウスを所有したがる。なぜか? ふと使いたくなったときにいつでも使えるようにするためだ。トレーダーにはこんな金言がある。「船、飛行機、女の3つは、借りられるかぎり買うな」。それでも、多くの連中が船や飛行機を所有し、女性にのめりこんでしまう。
確かに、契約労働者の側にもリスクはある。名声的なリスクはもちろん、違約金が契約に組みこまれることもある。しかし、考えてみれば、雇われ人のほうが常にリスクは大きい。そして、雇われ人という人種は、その定義からリスクを嫌うだろう。雇われ人であることそのものが、ある種、飼いならされた身分であることを物語っている。
雇われ期間の長い人間は、従順であるという強烈な証拠を発している。1日9時間にわたって個人的な自由をなげうち、毎日同じ時間にオフィスに着き、自分の予定を2の次にし、仕事でイヤなことがあっても帰宅中に決してケンカをしない雇われ人たちは、従順の証拠を放っている。彼らはよく飼いならされた従順な犬なのだ。
リスク・テイカーは社会的に予測のつかない人間だ。自由は常にリスク・テイクと絡みあっている。自由とリスク・テイク、どちらが先かは別として。リスクを冒すと、歴史を作っている気分になる。リスク・テイカーがリスクを冒すのは、それが野生動物の本能だからなのだ。
重要なのは、何を持っているか、持っていないかではない。何を失うことを恐れているかだ。
失うものが多ければ多いほど、その人間は脆くなる
人は地位が高くなればなるほど不安定になる。人生で地位が上がって得をするのは、一部の状況だけだ。CIA長官はトラック運転手よりも不安定な立場にいる。不倫さえ許されないのだ。人の命を危険にさらすことはできても、奴隷であることに変わりはない。公務員の構造全体がそういう風にできているのだ。
私たちが大げさに「生存」と呼んでいる行為は、無秩序への対応能力といえる。
確率の世界では、変動性と時とは同じものだ。脆さという概念によって、「時だけがモノの運命を評価できる」という概念に厳密性が加わった。ここでいうモノとは、思想、人々、知的生産物、自動車モデル、科学理論、書籍などのことだ。
スペインのアルフォンソ10世(通称「賢王」)はこんな格言を述べた。「古い薪を燃やせ。古いワインを飲め。古い本を読め。古い友を保て」
自由人とは、同僚の評価に大きく(または直接的に)運命を委ねていない人間のことである
熟練した泥棒は泥棒っぽく見えないはずだ。泥棒っぽい泥棒は、とっくに塀のなかだろうから
社会の多くの問題は、複雑な解決策を売りつける人々の干渉によって生まれる。彼らの受けた教育や立場がそう仕向けるからだ。そういう立場にいる人には、シンプルな解決策を提案するメリットがまったくない。彼らは成果ではなくイメージで報酬を受け取っているからだ。一方、物事を複雑化するにつれて非線形的に膨らんでいく副作用に対しては、何の代償も支払わないから困ったものだ。
金持ちの選好は操られている
人は金持ちになると、身銭を切るという形の経験メカニズムを捨て去る。自分の選好を自分で操れなくなり、誰かによって形成された選好へと置き換え、生活を不必要に複雑化し、不幸を招いてしまう。そして、その形成された選好というのは、もちろん、金持ちに何かを売りつけようとする人々の選好だ。これは身銭を切るという問題とかかわっている。金持ちの選択は、何かを売りつけて得をしようとする(でも、その副作用は負わない)人々によって決められるからだ。しかも、たいていの場合、搾取される側は金持ち、搾取する側は金持ちではないので、誰も「はめられた!」と叫んだりはしない。
金持ちは自然な標的なのだ。セネカの悲劇『テュエステス』でテュエステスが叫ぶように、泥棒は無一文の家には入らない。
物事を複雑化すれば、人々からお金をだまし取るのはたやすい。その点、貧しい人々はそうした搾取に遭いにくい。人は金持ちになると、たちまち“専門家”や“コンサルタント”の手を借りはじめる。人々からお金をだまし取るために存在する業界全体が、たちまち牙を剥きはじめる。
スケーリングの性質から、善とは集団のために何かをすること、特にあなた自身の利益と食い違うような行動を取ることだと定義できる。善とは、みんなに優しくされている人に自分も優しくすることではない。
つまり、本当の善とは、主にほかの人々に見放されている人たち、もっといえば、壮大な慈善事業で見落とされがちな人たちに優しくするということなのだ。または、友だちがいない人にときどき電話をかけたり、焙煎したてのイタリアン・コーヒーを飲みに誘ったりするのもいい。
ひとつアドバイスを。ときどき、”人類の役に立ちたい”という若者が私のところへやってきて、「そのためにはどうすればいいでしょう?」と訊いてくることがある。彼らは「貧困を減らしたい」「世界を救いたい」といったマクロレベルの立派な夢を持っている。私のアドバイスはこうだ。
⑴決して善をひけらかすな。
⑵決してレントシーキングを行うな。
⑶是が非でもビジネスを始めよ。リスクを冒し、ビジネスを立ち上げろ。
そう、リスクを冒すのだ。そして、もしも金持ちになったら(必須ではない)、他人のために惜しみなくお金を使えばいい。社会には、(有限の)リスクを冒す人々が必要だ。ホモ・サピエンスの子孫たちをマクロなもの、抽象的で普遍的な目的、社会にテール・リスクをもたらすような社会工学から遠ざけるために。ビジネスは、経済的に大規模でリスキーな変化をもたらすことなく経済活動を行えるので、いいことずくめだ。開発援助業界のような機関も世の中の役に立つかも知れないが、害を及ばす可能性も同じくらいある。(これでも、楽観的に述べている。ほんの一握りの機関を除けば、結局のところ有害だと私は確信している)。
勇気(リスク・テイク)は最高の善だ。世の中には起業家が必要なのだ。
あるものをどれくらい本気で”信じて”いるかは、その人がその信念を貫くために冒すリスクを見ればわかる。
私が現実的、経験的、数学的にいって厳密だと思う唯一の合理性の定義は、次のようなものだ。
「生存に役立つものは合理的である」。現代の似非心理学者たちの理論とは異なり、この定義は古典的な考え方に通ずる。「個人、集団、部族、あるいは全体の生存を妨げるものは非合理的である」というのが私の考えだ。
だからこそ、予防原則や堅実なリスクの理解が必要なのだ。
「成功するにはまず生き残るべし」という原則がある。数年間以上、リスク・テイクの世界を生き抜いてきた人なら誰でも、似たような座右の銘を持っているものだ。私の場合は、「川の深さが平均で4フィートなら渡ってはいけない」だ。私は、「重要なのは順序であり、破滅の可能性があるところでは費用便益分析がまるっきり無意味になる」という原則に従って一生を送ってきたといっても過言ではない。