無縁の原理
日本中世史の大家であった網野善彦は、日本社会における自由の根源を探し求め、「無縁」 という概念に到達し、「無縁の原理」 が人間社会には作動しているのだと主張した。 私の考えでは 「無縁の原理」 とは、人間同士の関係、すなわち 「縁」 が腐れ縁になってしまったとき、その縁を断ち切って離れるのは当然だ、という人類普遍の感覚のことである。 この無縁の原理が作動することにより、人間の自由が確保され、人々の関係の質的劣化を防ぐことができる。 この無縁の原理は、「縁」 が流動的であるなら見えにくくなり、それが固定化されるに従ってその作動も可視化され、「無縁所」 といった具体的な空間を占めるようになる。 その一例を網野は、そこに女性が駆け込むと婚姻関係が消滅する 「縁切寺」 などに求めている。 そして更に、この無縁の原理を身に帯びた人間を 「無縁者」 と呼ぶ。 無縁者とは、普通の人間には適用される規則が、適用されない者である。 網野が挙げるのは、たとえば、天皇や上皇といった、極めて身分の高い人物に直接に交遊する白拍子、僧侶、歌人といった人々である。 彼らは、無縁者であるがゆえに、高い身分の人と直接に口をきくという、有縁の人であれば決して許されないはずのことが許される。 この無縁の原理は、近代国家では認められない。 法律は如何なる場所であっても、誰であっても、等しく適用される建前である。 無縁の原理はもはや、息を止められたかのように見える。 しかし、それは無縁の原理が、「原理」 である以上、ありえない。 均一に加えられる抑圧に息苦しくなった人々は、無縁者の存在を求める。 たとえば、「フーテンの寅さん」 や 「釣りバカ日誌」 が多くのサラリーマンの心を捉えたのは、こういう映画の主人公が現代の 「無縁者」 だからである。 あるいは、長期に渡って日本のテレビ業界のトップを占める女装家マツコ・デラックス氏は、その異形と相まって、無縁のパワーを発揮している。