第二種過誤を最小化するルールと人間の自然
第二種過誤を小さく(限りなくゼロに)するために、第一種過誤(偽陽性)には目をつぶるようなルール化なり「空気」なりを作ろうとする動きが、いろんなところで加速してるような気がする。やりすぎると息苦しい世の中になると思うが、第二種過誤の当事者にとっては看過できないので、難しいところ。 ただ、あくまでも、どんなことについても、感じ方は「分布」するので、第一種過誤が原理的に存在するのだということを常に気にしておいて、たまにそこへ立ち返って調整を繰り返したほうがいいのだろうな、と。 で、その分布は、人間がその自然として持っている部分と、広い意味での環境によって作られ変化していく部分とがあると思う。前者については特によくよく考えたほうがよい。そこを必要以上にしめつけると息苦しくなる。 で、そういうことについては、宗教にせよ、文学にせよ、数千年にわたって考えこまれてきたのだろうなと。きっと同じ構造の問題が繰り返し生まれてきたのだろう。
ラベルを貼る=名前をつける、という行為は、この「分布」を見えなくする。 「分布」とか、必要条件・十分条件とかは、ものごとを捉えるうえでとても大切な概念だと思うので、文系とか理系とか関係なく身につけられるといいなと思う。 これ自体は、よりよい思考をするための十分条件ではないが、必要条件ではあると思う。(…ここでいう「よりよい」はある価値観のもとでのもので、その価値観もまた分布する。) こういうことを、放っておくと「お説教」として言ってしまいそうになるので、よく自制しないといけないと思う…
ただ、大学の授業なんかにしても、学習目標が汎用的能力寄りになるほど、こういう「お説教」的なものになりがちなので、それこそシラバスでちゃんと授業のねらいをなるべく誰にもわかるように書いておいて、学生がそれを履修の判断材料にできるようにしておくべきなんだろうな。