介入はどこまで正当化されるか
図書室の貸出履歴のデータベース化によって児童一人ひとりの読書傾向を先生が理解し、傾向に偏りがないように指導が入る、というニュースが話題になっているのを見て。
こういうのは、気をつけないと知らず知らずやってしまう怖さがある気がする。
一方で、「データベース化して」という部分に空恐ろしい感じを受けるだけで、データベースを使わず対話によって同じようなことをすることはごまんとあるのではとも。そしてそれは良いことか、悪いことか。
生まれ生きる環境の不条理なばらつきを埋めようとすることは教育のいち側面だと思うけど、「指導」や「支援」という「介入」はどこまでが正当化されるのか。簡単には決められないなと。
「こうしなさい」と言うのではなく、「こんなものがあるよ」と提示して自分で決めて/選んでもらう、というのがよいのかも、と思ったりしていたけど、つきつめると両者にそんなに違いはないのかも、とも最近は思ったり。
何かを行為した時点で、程度はともかく、それに触れる人に影響し変容させるものでしょうし。その触れ方が受動か能動かの違いであって(まあそれが大きい違いんだけど)、行為者自身が何らかの「世界の変容」を意図していることに変わりはないのかもと。
おせっかいは最小限にしたい一方、なにもしないとなにも変わらない、というやつ。
こういうことって大昔から議論しつくされているのかもなあ。学生時代教職とかも取ってなかったし、僕は教育学まわりの基本的なことをあまりに知らないのかもしれない。代表的な考え方はすでに出尽くしていて、そのどれかあるいはいくつかを用いてスタンスを決めれば済むのかも。
2018/7/4のX(twitter)より
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