「知的生産の技術」のメモ
岩波書店, 1969
「はじめに」より引用
いきなり「学校はおしえすぎる」から始まる
今日、学校においては、先生がおしえすぎるのである。親切に、あまりにも親切に、なんでもかでも、おしえてしまうのである。そこで学生は、おしえてもらうことになれて、みずからまなぶことをしらない、ということになってしまう。
もし学校において、教師はできるだけおしえまいとし、学生はなんとかして教師から知恵をうばいとってやろうとつとめる、そういうきびしい対立と抗争の関係が成立するならば、学校というものの教育的効果は、いまの何層倍かにものぼるのではないかと、わたしは想像している。
そして『学校は知識は教えすぎるくせに、「学び方」は教えてくれない』と続く そこで知的生産の技術、となる
知的生産の技術に「ついて」書くが、技術を体系的に解説するのではなく、ひとつの提言・問題提起だ、と続く
ハウツーものではなく、議論のタネをまいて、刺激剤を提供するだけだ、と
そして、知的生産の技術について一番肝心なのは、「それについていろいろと考えてみること、そしてそれを実行してみること」と
これに尽きる……
大学の学びはそういう機会をもてるようにデザインされるといいなと思う
なのでアクティブラーニングは「手法」のみを語りすぎないほうがよい
3章「カードとそのつかいかた」より引用
セクション名:「忘れるために書く」「一枚一項目」「分類が目的ではない」
これはいわば、目にみえない脳細胞のはたらきを、カードというかたちで、外部にとりだしてながめるみたいなものである。あるいは、そうして外部で目にみえる形で操作することによって、内部の作業の進行をたすけようというのである。
カードが何枚たまっても、その分類法についてあまり神経質になる必要はない。分類法をきめるということは、じつは、思想に、あるワクをもうけるということなのだ。きっちりきめられた分類体系のなかにカードをほうりこむと、そのカードは、しばしば窒息して死んでしまう。
そう、分類ルールをつくらないほうがよい!
知識の客観的な内容によって分類するのではなく、むしろ主体的な関心のありかたによって区分するほうがよい。
リンクやタグの貼り方にも関係する
カード法は、歴史を現在化する技術であり、時間を物質化する方法である。
9章「日記と記録」より引用
くりかえしていうことだが、わたしたちの社会の、制度化された教育体系では、達成された成果を次代につたえることには、なかなか熱心であったが、その達成までの技術を開発し、発展させようという気もちは、あまりなかったようにおもわれる。技術の開発と発展のためには、成果よりも、それにいたるまでの経過の記録と、その分析がたいせつである。ところが、そのほうは、信じられないくらいおそまつなのである。
その他、「知的生産をする場」と「事務処理をする場」と「資料置き場」を分けるという話や、整理や事務についての技法は能率を上げるためでなく知的生産のための障害物をのぞいて精神的安静を得るという「秩序としずけさ」のために行うのだ、という話がありうわぁーと思った。 いまよく大学教員が忙しすぎて研究できないみたいな話が出るのは、この「秩序としずけさ」がないということなんだよな。これは根本的には構造的な問題なんだけど、技術的にある程度マシにはできるのかもなという気もする。