なにかを好きになるタイミング
なにかを好きになるのにはタイミングがとても重要なので、高校から大学くらいに熱心に聴いていた曲をいま初めて聴いたとしても、きっとそんなに引っかからないんだろう。そう思うと、10代後半から20代前半くらいというのはなんと貴重な時間だろうか。そしてある意味取り返しがつかない。
ぼくはゆずの岩沢厚治さんの書く曲がとても好きなんですが、なかでも「始発列車」が好きで、それもゆずのANNのスタジオライブで歌ったアコースティックバージョンがめっぽう好き。で、こういうことを言えるのも、そんなラジオの音源をデジタル化したりしてるのも、タイミングゆえなのである。 岩沢さんの曲では、「始発列車」「チョコレート」「風に吹かれた」などが最高に好きである。この世の全ての曲の中でも最高レベルに好きな曲集合に含まれる。そして最近の曲はほとんど知らない。そういうものです。
あ、「なにもない」もすばらしいな。あんな曲は誰にも書けないし、岩沢さんもあのときにしか絶対に書けなかった曲。でもそのすばらしさは永遠です。
で、好きになるというのは、単純な繰り返しがとても大きい。いまは単純に、新しく出会った曲を繰り返し聴くということがほとんどできない。繰り返し聴くのはある種の苦行であって、それに耐える根気がない。そしてつい「ラクな」慣れ親しんだ曲をまた聴いてしまう。
定額聴き放題のサービスは素晴らしいけど、こういうサービスで出会った曲を、昔の比喩でいう「すりきれるほど聴き込む」ということは、以前ほど起こりにくくなってるんじゃないかという予感は、やっぱり消えない。そんなことはないのかな。もうその歳になれないからわからないな。
CDを買う、あるいは借りるというのはイベントだったからな。テープにダビングして曲名を書き写すこととかも。ジャケットや歌詞カード、テレビや雑誌の情報などを含む全てに深く沈み込むような感じだったと思う。
まあ、こういうのは郷愁であって、いまはいまのあり方があるんだろう。ただ、昔はある意味「不完全情報」との格闘だったけど、いまは完全情報にかなり触れやすくなってると思うので、不完全と完全の間を埋める空想の時間は少なくなってるのかもなと。そんなことないのかもしれないが。
というか、そういう役割をもつメディアが、音楽以外に多様化してるんだろうな。本質的に同様の体験を与えるものが多様化、個別化してるんだろうなと想像する。そして数十年後、本質的に同じような郷愁をいまの若者が持つのでしょう。