つらいけれども面白い
負荷をかけることでしか脳は育たないけれども、表面的にはどんどん負荷をかけずにすんでしまうようになっていくとしたら、どうやって負荷をかけたらいいかがますます難しくなってくるなあ。へたしたら負荷をかけることはハラスメントと言われたりするようにもなりかねないし。
効率が高いことで学びを促進できるのは、すでにある種の汎用的能力がある人であるような気がする。このある種の汎用的能力は、いろーんな泥臭いしんどいことの積み重ねでしか得られないんじゃないか。不便益的な。 つらいけれども面白い、という状態を作りたいのだけど、「つらい」のあり方も「面白い」のあり方も人それぞれ、というところの難しさ。これこそが個別最適ななんとかというやつが本当にやらないといけないことなのかもな。
つらいけれども面白い、というのは、音楽でもスポーツでも優れたゲームでも、なんでもそうなんだよな。ゲーミフィケーションというのは、ゲームの表層的な部分じゃなくて、そういうところの構造に学ばないといけない。 「課題は多くて大変だったけど、楽しかったです」のような反応はかなりあるのだけど、これも生存者バイアスがあるので、「つらさ」が刺さりすぎてしまった学習者のことをもっと知らないといけないのかもしれない。