魚を与えるのではなく漁を教えろ
飢えている人に魚を与えても1日の飢えしかしのげない
釣りを教えれば一生食べていくことができる
だから魚を与えるのではなく釣りの方法を教えるべきである
中国のことわざとされるがかなり怪しい
紀元前122年までに「魚が欲しければ、家に帰って網を作れ」ということわざは生まれている。
しかしそれは「魚を与えるのではなく漁を教えろ」という趣旨の言葉ではない
「貧民に商売を教えろ」という趣旨のことは12世紀にユダヤ教のラビが文章に残している
それが英語圏で「魚を与えるのではなく漁を教えろ」に徐々に変わった
1961年に中国のことわざであるという言説が生まれたが、その際に出典は明記されていない
授人以鱼不如授人以渔 --语出《淮南子·说林训》,原文说:“临河而羡鱼,不如归家织网。”《汉书·董仲舒传》,书中说:“故汉得天下以来,常欲治而至今不可善治者,失之于当更化而不更化也。古人有言 曰:‘临渊羡鱼,不如退而结网。”中国有句古话叫“授人以鱼不如授人以渔”,说的是传授给人既有知识,不如传授给人学习知识的方法。道理其实很简单,鱼是目的,钓鱼是手段,一条鱼能解一时之饥,却不能解长久之饥,如果想永远有鱼吃,那就要学会钓鱼的方法。
淮南子(えなんじ)は、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年–紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。
もちろん紀元前に簡体字があるはずがないので、Wikisourceの方が正しいだろう。
「河に臨みて魚を羨むなら、家に帰って網を織るにしかず」「魚が欲しければ、網を作るしかない」となるだろうか。
しかしこの文脈は
食其食者不毀其器,食其實者不折其枝。塞其源者竭,背其本者枯。交畫不暢,連環不解,其解之不以解
食事をする人は食器を壊したりしないし、木の実を食べる人は木の枝を折ったりしない。水源を塞ぐ人は渇き、本に背く?ものは枯れる。絡まった紐は伸びないし、連なった輪は解けない。其解之不以解(これはよくわからん)
という感じなので「物事の当たり前の道理として、何かを得ようと思うなら、それを得る手段を大切にする必要がある」というニュアンスであるように思う。
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汉书とは
『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。
董仲舒传とは
漢書 卷五十六 董仲舒傳 第二十六
如以湯止沸,抱薪救火,愈其亡益也。竊譬之琴瑟不調,甚者必解而更張之,乃可鼓也;爲政而不行,甚者必變而更化之,乃可理也。當更張而不更張,雖有良工不能善調也;當更化而不更化,雖有大賢不能善治也。故漢得天下以來,常欲治而至今不可善治者,失之於當更化而不更化也。古人有言曰:「臨淵羨魚,不如退而結網。」
これの文脈は「変化すべきタイミングに変化することができなかったら大賢であっても善い統治はできない。漢が天下を得て以来、統治しようとして善く統治できなかった者は、すべて変化すべきタイミングで変化することができなかったからなのだ」という感じ。
そして1961年に唐突にFred Nelsonがこの今風の表現を「中国のことわざだ」と紹介した。