語るなら読んでおけ
『エンジニアの知的生産術』で「〇〇について語るなら××ぐらいは読んでおけ」について否定的だったのに救われた。自分は自分の時間で別の勉強をしてたので良いと思うことにする。人の時間は有限なんだし、読書体験は人の前提知識や経験に大きく依存するし、どうせ全部覚えてるわけじゃないし。
後半には全く同意なのですけど、それを『「〇〇について語るなら××ぐらいは読んでおけ」について否定的だった』と表現するところにだけ違和感があります
なぜ違和感があるのか考える
説明しやすさのために記号を書き換えて「Aについて語るならXぐらいは読んでおけ」にしておく
自分は自分の時間で別の勉強をしてたので良い
同意
Aについて学ぶ代わりにBについて学んだのなら、何も悪くない。
「みんながAについて学んでるから」という理由でAを学ぶことに比べると、学ぶ対象を自分で選んでて、むしろ良い
人の時間は有限
同意
有限だから全てを学ぶことはできない
限られた時間を何に投資するのかは、個々人の投資判断
読書体験は人の前提知識や経験に大きく依存する
同意
同じ本を読んでも、同じものを得るわけではない
どうせ全部覚えてるわけじゃない
同意
人間はコンピュータにファイルをダウンロードするのとは違う
全部覚えているわけではないし、全部覚えることはコンピュータの方が得意
「Aについて語るならXぐらいは読んでおけ」について否定的
うーん
AではなくBを学ぶのは悪いことではないし、Aを学ぶ上でXではなくYを読むのもいいかもしれない
だが、例えばKJ法について語る人が「KJ法とは付箋に色々書いて分類する手法だ」とか言ってると「提案者本人があんなに何度も分類してはいけないって言ってるのに何を言っているんだ??」となる これは「Xについて語るならそれが提案された本ぐらいは読んでおけ」の構図
「聖典に忠実であれ」と言ってるわけではない
一旦理解した上で、自分の状況に合わせて修正したり、重要でないと判断した部分で手を抜くのはあり。推奨
なのだが、その「一旦理解した上で」がされてないのはNG
これはAとXの関係によって印象が変わるのかもしれない
「プログラミングについて語るならHaskellくらい学んでおけ」
Aがとても広くて、Xが高コスト
NGな気持ち
「Haskellについて語るならHaskellチュートリアルくらい読んでおけ」
Aが狭くて、Xが低コスト
これは逆に「当然だろ」という気持ち
「広い範囲の人に高いコスト負担を強いる主張」にNGを感じる
範囲が狭い場合は「それについて語るのなら、前提知識は当然必要だ」と感じる
AとXの内容によって僕の感じ方が異なるのに、AとXが限定されない「Aについて語るならXぐらいは読んでおけ」に否定的だと言われたことで、否定的ではないAとXを思いついて違和感につながったのだな