瞑想で座る必要はない
「刺激が入ってくる量を減らす」が大事
そのための手法として座ることが選択肢の一つ
風呂でのんびりするのも歩くのも選択肢
瞑想で座る必要はない/villagepump/nishio.icon
座ることを重視する宗派もある
だけど歩く宗派もある
臨済では、「走り経行」とも言われるように、サッサと時には、走るくらいの速度で歩くのです。 対して曹洞宗では、一息半歩といって、一息で足の幅半分ほどをゆっくりと歩くのであります
例えば風呂に入って何も考えずにぽけーとしてる状態でも心は鎮まってる、これは瞑想の一種
瞑想を何か特別な儀式のように考えてしまう人がいる
それは特別な儀式のように演出したい人がいるから
ブッダが坐禅によって悟ったとしても、それを理由に「座ることが必須だ」と考えるのはおかしい
座り慣れてない人を硬い床に座らせて尻が痛い足が痛いと「苦しみ」を感じる状態に追い込むのは苦行である 苦しいことをすることによって悟るのではない
そもそもブッダの時代と比べて現代人は大部分の時間を座って過ごしている
座りすぎて健康に悪いと言われるレベル
その状態からさらに座っても、あまり「普段の生活との切り替え」の効果はない
むしろ激しく運動してから休む方が本来の「坐禅」に近い
さすがにTwitterを見ながら瞑想はできないと思う
つまり「刺激が入ってくる量を減らす」が大事
浴室も、何もないなら刺激は少ないから瞑想向き、Netflix再生したら瞑想はできない