無責任感
「責任感」という概念は「責任感がある」「責任感がない」という言葉の使われ方からすると、暗黙にポジティブなものだと前提されているように思う。 しかし責任感が物事を悪くする事例がある。であるなら前提は正しくないので、責任感がない状態「無責任感」の価値もポジティブでありえると考えた方がよいのではないか。
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このケースで
「パーティープレイなら防御、ソロプレイなら逃げて宿屋(で回復)が最適解」
いよいよヤバくなって逃げようとしても回り込まれてしまう
と、頭ではわかっているにもかかわらず、合理的ではない行動をとってしまう。
その理由が「なんとかしなきゃというきもち」つまり責任感である。
なぜ責任感という感情だけ「ついかっとなって」とか「金に目がくらんで」とかよりも高尚なものだと捉えられているのか。
「感情によって合理的な行動が妨げられる」というより、「感情そのものの満足」というゴールを合理性の中に含めれば、「敵を倒すという目的より、倒すために頑張っているという姿勢を見せる」というのは十分合理的なんだと思ってるし、合理性なんてよくもわるくもその程度の道具なんだとも思ってる。(src) 責任というのは、その選択に対して自分の行為と結果との因果関係を事前に認める行為であって、ポジティブというのは、結論がよい場合しか見ていないのでは。結論が悪い場合においてその失敗を受け容れ、改善するなり補償をするという両面を捉えないといけない。(src) 責任感が物事を悪くしてしまうというケースは、本来自分の持てる力以上の仕事を引き受けてしまう場合(これは自分の役割だからやらないといけない)とか、誰かの助けを得たり、仕事を他者に割り振ることができない場合とか。(src) 抽象に考える能力の有無はQOL(生活の質)に関わる、とマイケル・ホワイトが言ってる。ナラティブ・セラピーで知られた人だけど、個人を責任の宛先にする性向をフーコー使って粉砕し、ネガティブな出来事ばかり拾ってスパイラルに悪化するクライエントの自己物語をデリダ使って書き換えたりする。(src) 「自主的にやれ」「自発的にやれ」という指示は、ベイトソンらの持ちネタですが、どうあっても従えないパラドクス的指示で、仮に命令に従って行うと自主的・自発的でないことになる、という奴です。「内発的動機づけ」にもこの風味があって、それ故「内容関与的動機」に変更する必要があったのか、と。(src) 責任倫理と責任感の関係みたいなことを考えていた。前者は問題解決者としての試行錯誤プロセスの根底にある倫理観であり、後者は語用的には、他者を責めるときに使う。しかし、その責任を押し付けているだけで、実際に改善に導くような助言に至らないことが多い。(src) 個人の行為の改善を法律で動機づける(真面目に働かせたり、試行錯誤させる)ことはできないので、その人の行動の一貫性や誠実性を評価して責任感のある(ない)人間とみなすことでしか介入しようがないみたいな話なのかも。
責任感という感情がどこから生まれるのか考えている。
他人が「あいつは責任感がない」と言う時、実際には明確な責任は存在しないのではないかと言う指摘。明確な責任があれば「契約を不履行」「約束を守らない」などの表現になるはずだ、とのこと。
「あいつは責任感がない」と言う発言は「あいつには実際には明確な責任がないので契約に基づいてやれと言えないのだけど、俺のやって欲しいことを察して自発的にやって欲しい」という意味なのでは説
というように僕は責任感という感情に注目して掘り下げようとしたのだけど、逃げて休むべきなのにメラを打ってる状況を説明したら「休まないのは、頑張ったのだから責めないで欲しい、という保身ではないか」という厳しい指摘もあった
「無責任」と「責任感がない」はイコールではないという指摘。無責任は本当に責任があるのにそれを果たしてない時に主に使うが、責任感がない、はそれを含んだより広い領域に使う。明確な責任がない時にも使う、とのこと。
「責任感がない」と「主体性がない」は似ている。残業しないでさっさと帰って仕事以外のことをしている人に対して「仕事に主体的でない」という批判をする人が居るが「やる義務がないことをこちらが命じなくても汲み取って自発的に実行して欲しい」といっているような状態。
この話の文脈