日本語は論理的である
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1955年東京都生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業。同大学院修士課程修了。現在、東京電機大学工学部教授。工学博士。
論理とは比喩の形式である
記号操作可能性は想像可能性に基づく
想像(イメージ)
抽象的な表現は比喩を通してイメージにつながる
「心が満たされない」=心を容器にたとえてる
「彼は試験中」=時間が容器
例文: カント「純粋理性批判」
現象において感覚と対応するところのものを、私は現象の質料と名付ける
現象の多様な内容をある関係において整理するところのものは、現象の形式と呼ばれる この「整理する」は主体が人間ではない(形式である)→擬人の比喩
論理とは比喩の形式である
容器の比喩の「形式」「共通の性質」はなにか→閉じた線で空間が二つに区切られている
形式論理における真偽は集合の内外なので容器の論理に対応する
擬人の比喩の形式は「主体、対象、動作」の三つ組である
日本語の論理と英語の論理
英語の論理は主体の論理
生成文法も認知文法も主体の論理
英語では無生物主語が多い
「主語-述語」は普遍的か?
主語強要言語は多くない
英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語…
日本の開国の過程で強く影響を与えた国
「主題-解説」という関係
述語が文の中心的要素
「運んだ」が中心で「誰が」も「何を」も補語であり、同格
必要なければ省略される
日本語の論理の基本は容器の論理
日本語は人を「場所」にする表現が多い
英語では無生物を人に例えることが多い、日本語では人を場所に例えることが多い
「太郎さんは経験豊富だ」=太郎さんという容器に経験が豊富に入ってる
「春はあけぼの(が最も美しい)」
春があけぼのなのではない
春という容器の中ではあけぼのが一番、と言っている
一文法二論理
「英語は主体の論理だけ、日本語は空間の論理だけ」と主張しているのではない
よく使う論理が、英語だと主体の論理、日本語だと空間の論理、ということ
「象が荷物を運んだ」は主体の論理、日本人もこれを理解できる
「象は鼻が長い」を主体の論理で説明するのは難しい
「象」という容器の中では「鼻が長い」が成立する、という空間の論理
「夕方になった」「Evening has come」
Eveningが来る主体の論理
空間の論理としての格助詞
「Xである/Xでない」と「容器の中/容器の外」の対応
ここでいう述語とは「主語述語」の「述語」ではなく「述語論理」の述語
例えば「ソクラテス」をsという項で表現し、Pは「人間である」の述語記号とすると、P(s)で「ソクラテスは人間である」という真偽を持つ論理式になる。
このP(s)が述語
命題論理に述語を加えたものが古典論理である
「A is B」はその一種
オランダ語にもis(be動詞)に対応する表現がある(三人称単数の時はis)
開国当時日本にはそれに対応する表現がなかった
そこで「である」が造語された(柳父章「翻訳語成立事情」) →であるの歴史 「AはBである」=「Aという容器の中で、Bデアル」
僕は「容器」って言葉には不慣れだけど「Aという条件を満たす集合の中では、Bが成立する」ってこと
日本語は非論理的ではなく、日本の論理は特殊なものではない。西欧言語との違いは主体の論理と空間の論理の使用比率。
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