悟りに至るプロセスとしてのKozaneba
nishio: 半ば冗談で「Kozaneba修行」と読んだが、これは修行なのかどうなのか、を考えながらウォーキングしてこよう、明るいうちに日を浴びる nishio: 悟りに至るプロセスとしての禅定の実戦という言葉の影響で「修行」という言葉が出てきたわけだが、サマタでもビッパサーナでもないわな。むしろ境内を掃き清めることとかに近い。しかし境内掃除は毎日同じことの繰り返しであるのに対し、Kozanebaは常に「まだ理解してないもの、言葉になってないもの nishio: まだ言葉になっていないものを手に入れるために、まずシンボルを自分の解釈で歪めることなくありのままの現象として受け止め、操作し続ける、というプロセスには、何か日常と異なった「行」を行ってる感じはあるな。「正見」に近いのかな nishio: うーん、修行によって自らを高める目的というよりは、科学者マインドな気がするなぁ。僕は理解という現象がどのように起こっているのかを知りたい。そこで斜め読みして理解できないような文書を持ってきて、自分がそれを理解するプロセスを観察する nishio: 観察するためには外在化されていることが好ましい。なぜかというと人間の一時記憶は容易に壊れるから、難しい文章を読んでる最中に今やってるみたいな「ちょっと散歩しながら別のことを考えよう」をやると壊れてしまうから。思考のプロセスを脳の外に置くことで、中断しても壊れず再開できるようになる nishio: この思考の外在化を、僕は7年前?にKJ法に出会ってから使い始めた、なので僕はそれを「KJ法」と読んでたんだけど、どうも世の中の「KJ法」という言葉の使い方とは異なるようだ。どちらかというとこざね法に近いが、それも適当ではない。紙でやってきた経験から不便に感じたことを電子化で対処して nishio: 修行という言葉がしっくりこない理由として、仏教などが修行の目的においてる「生物学的な自分の存在が永続的でないことにネガティブな感情があるので、永続的存在と合一することによってその感情から解き放たれたい」に共感できないからだな nishio: 物理的なタンパク質の身体を、かなり「旧型のコンピュータ」と認識していて、自分自身だという感覚を持てていない。インターネット上の情報の集まりの方がむしろ自分の身体である実感に近い。だから考えたことをこうやってインターネットに入れる一歩一歩が「自分が生きる」ということで、 nishio: たとえば入浴して身体をきれいにするのは、空気清浄機のフィルターに掃除機をかけるような「やりたくないけどやらないと性能が落ちるからやること」なわけだ nishio: インターネットに自分が書いたもののまとまってる場所があるけども、それが身体というわけではなく、単にアクセスが容易になるツールに過ぎない感じがある。つい最近も僕のスライドの一部が切り取られて無記名で流通してたのを見たけど、不思議と怒りとか「取られた」という気持ちにならなかった nishio: 「そういうことが起こるのがこの世界における当然の物理法則である」という気持ち。 良いものはコピーされ、コピーの過程でしばしば歪む。
そういう意味では出典を削られてることに対して「自分のものを取られた」という感覚ではなく「情報が減ってもったいない」という気持ちになるの興味深いな
nishio: たとえばおいしい果物のなる木があるとする。果物を取って持って行っても、食べたらそれでおしまい。 それよりも木の場所を知ることの方が価値があるし、可能なら枝を取って自分の庭に植えて育てた方がもっと良い。
nishio: でも出典が削られたり歪んだりしても、検索エンジンはすべてを知っているので調べればわかる、そう考えるとインターネットに対して投稿するということは永続的絶対者であるところのインターネットと自己が合一するということなのでは nishio: 禅において「一寸(3センチ、蝋燭が3センチ燃える時間)座れば一寸の仏」という言葉があるが、現代においては1ツイートすれば1ツイートの仏なのだな nishio: スマホでツイートしながら歩いてたら手が冷えてしまった、まったくタンパク質の身体はポンコツで良くない、早く脳にインプラントして考えるだけでインターネットできるようになりたい