コンヴィヴィアリティ
https://gyazo.com/ec296776c973ca02673c14e4fd1ab070
まず物理的な物についての「コンヴィヴィアリティのための道具」について説明してから抽象化するのがわかりやすそう。
これに関しては「コンヴィヴィアリティのための道具」p.39に簡潔にまとまっている
人々は物を手に入れる必要があるだけではない。彼らはなによりも、暮しを可能にしてくれる物を作り出す自由、それに自分の好みにしたがって形を与える自由、他人をかまったり世話したりするのにそれを用いる自由を必要とするのだ。富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたないし、その品物をどうするかということも決められない。彼らの刑罰は、私のいわゆる自立共生(コンヴィヴィアリティ)を制奪されていることに存する。彼らは単なる消費者の地位に降格されているのだ。
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。
つまり「単なる消費者」は「コンヴィヴィアリティを剥奪」されている状態で、「物を作り出す自由」がある状態が「コンヴィヴィアリティ」のある状態である。 なので「コンヴィヴィアリティのための道具」とは「物を作り出す自由」を与えてくれる道具である。
例えば「子供が二人でカルタの対戦をしたくてカルタを読み上げる人がいないからScratchで読み上げるプログラムを書いた」って話を以前見たけど、これは自分たちを世話するための物を作り出している。Scratchがコンヴィヴィアリティのための道具といえる。 「自分たちは作ることはできない、買って消費するだけ」という思い込みに囚われてない。
で、この「物」に関して、イリイチは「信仰」とか「教育」も「物」に含めている。(ここで一段抽象化されている) 例えば学校が「大量生産されパッケージ化された均質な教育を天下り的に与える場」である場合、それは「コンヴィヴィアリティを剥奪され、教育の単なる消費者にされている」とイリイチは考える。これはよくないね、というのがイリイチが先に「脱学校の社会」で言ったこと。 逆に先ほどのScratchでプログラミングをした子供は、コンヴィヴィアリティのある良い状態といえる
この「物を作り出す自由」を「自立共生」と訳すのはピンと来ない人が多いと思う。分脈を補う必要がある。
イリイチは元々カトリックの神父であったが、1961年法皇による南米への宣教師派遣に反対し1969年に教会活動から去っている。
教会が「大量生産されパッケージ化された均質な信仰を天下り的に与える場」である場合、これはよくない。特にこれが資金援助とセットで行われたことにより現地の人々に依存心を発生させてしまう。
イリイチはこれに反発し、後になぜ良くないのかを言語化していく過程で「脱学校」「コンヴィヴィアリティ」などの言葉を使った。
https://gyazo.com/ec296776c973ca02673c14e4fd1ab070
この文脈を踏まえると、天下り的な矢印に依存しないという意味で「自立」だし、周囲の人との繋がりで生きてるから「共生」なわけだ コンヴィヴィアリティについての説明「人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすもの」(p.40)について:
天下りに頼るのではなく周囲の人との相互依存・助け合いで共生をしているので「大量生産されパッケージ化された均質な信仰」を天下りで押しつけられることのない個的自由であり、また天下りでの倫理観価値観の押し付けではなくこの相互依存の形であることによって固有の倫理的価値をなしている、という状態
コンヴィヴィアルな社会とは「現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会」(p.17)
つまり左上の四角ではなく、右下の人々のために科学技術が使われる社会のこと
コンヴィヴィアルな社会「道具が責任を持って限界づけられた現代社会」(p.18)
限界づけなければ大量生産が行われて図の左側の構図が生まれてしまう https://gyazo.com/ec296776c973ca02673c14e4fd1ab070
この「道具」は、人間が手仕事で使うような道具ではなく大量生産が可能な装置や技術のことを意味している
イリイチが言ってるかどうかは確認してないが、ラジオやテレビの発明によって、大量の人にパッケージ化された情報をブロードキャストできるようになってマスメディアが生まれたのも似た構図(2024追記)
ここまで踏まえて「祝祭性」について考える:
この「祝祭」とは「他人が運営している祭りを見に行く」という「単なる消費者」として体験する祭りではない
何のために作り出すかといえば、周囲の人を楽しませるため(共に愉しむ=共愉性) 余談
p.34に「コンヴィヴィアルな軍隊」という面白い表現が出てくる
これはゲリラ兵のこと
---参考文献
「物を作り出す自由」までわかった後、なぜそれが「祝祭」と関連するのかわからなくて調べたら見つかった資料
これを読んでいて「自立共生」という訳語になった理由がよくわかった
これを読んでもやはりこの概念を「祝祭性」と表現するのは筋が良くないように思う
---きっかけ
「コンヴィヴィアリティを取り戻す手段として柳は民藝に注目した」がよく理解できていなかった
なぜ理解できていなかったかというと僕が「コンヴィヴィアリティ」を雑に「祭りをやろう的なやつ」と認識していたから
「ビデオ会議にコンヴィヴィアリティを持ち込む必要はない、家でお茶をたてたり、アートを置いたり作ったり」という話の流れがわからなかった
「お茶をたてるところをビデオ会議で中継する祭り??」とか思った
「大量生産された物の単なる消費者ではなく、自分や家族をもてなすために自分で物を作り出す」というところがキー概念
「アートを置いたり」と言ってから「作ったり」と言い直した理由もよくわかる
単に買ってきて置くだけだと産業主義的な消費っぽさが強いから
「民藝に注目」もわかった
民藝は無名の作家が生活のために作り出した日用品の美
大量生産ではないコンヴィヴィアルな生産
---問い
このXに、SNSや「メタバース」やグループウェアやバーチャル空間上のオフィスが代入される
この辺りでコンヴィヴィアリティという概念がグループウェアやメタバースの「良し悪し」について語る上で有用なのでは?と思い始めた
この時はまだ「コンヴィヴィアリティ」を「祭り的なもの」と認識していた
これに関しては肯定的につながった
僕の「バーチャルオフィスは、誰かが作ったワールドに単に入って使うのではなく、自分たちで変更することができるべきだ」という考えは、つまり「誰かが作ったものの単なる消費者の立場に置かれるのはコンヴィヴィアリティの剥奪だ、自分の好みに従って形を与える自由が奪われた状態だ」となるわけだ src 「グループウェアはコンヴィヴィアリティのための道具になるべきか」に関してはYes src kintoneは間違いなくコンヴィヴィアルな情報システムを作るのための道具
ユーザを「大量生産された情報システムの単なる消費者の立場」にするのではなく「仕事に使う情報システムを作り出す自由、好みにしたがって形を与える自由、他人を世話するのにそれを用いる自由」を与える
ウィズコロナのリモートワークで「必要な会議をビデオ会議で行えてても何か不足するものがある」というところを補完するサービスとしてマインクラフトのマルチプレイサーバ src マイクラはコンヴィヴィアリティのための道具
自分が作りたい物を作り出す自由、自分が良いと思うように形を変える自由、そしてマルチプレイであることによる「他の人の手助けになるように」物を作り出す自由がある
Zoomはコンヴィヴィアルな道具か?
「ユーザが好きな相手を選んで好きな内容の会話をできる」という意味でコンヴィヴィアルな道具
「自分で作りたい会話を作り出す」ことをせず「天下り的に与えられた会議に参加する」ことだけをしてるなら、あなたは会議の「単なる消費者」
コンヴィヴィアルに使うことができるツールを手にしながら、それをコンヴィヴィアルに使ってない状態
---過去ログ
2021-12-17nishio.iconいろんな訳語がある割に座りが悪いの、要するに日本語において対応する概念は外来の漢字を並べて作った熟語なんかではなく「祭りだ、わっしょい!」だからなのでは
2022-01-06 全然違う。著者本人が「宴会気分、という意味でも使われる言葉だがそういう意味では全然ない」とわざわざ明記してる
Borrowed from French convivial, from Latin convīvium (“a feast”), combined form of con- (“together”) + vīvō (“to live”).
Having elements of a feast or of entertainment, especially when it comes to eating and drinking, with accompanying festivity
nishio.iconこんなふうに辞書で調べたけど「そういう意味ではない」って明記されてたからまったく意味なかった
関連
表記ゆれ