30代最後の1年
僕の30代最後の1年は、東京でオリンピックを行うことを想定して作られた4連休で始まった
新型コロナウイルスCOVID19の蔓延によりオリンピックは延期された。1年の延期で済むのか、中止になるのかはいずれわかるだろう
インターネット接続によって物理的に集合せずに物事を進めることを多くの人が体験した
その反面、離れて暮らす家族に会えない、日本で長年暮らしてるのに国籍がないので入国できない、大学に入ったのにずっとオンライン講義しか受けられない、などの悲劇も起きている。物理的な隔たりが超えられない、ベルリンの壁的なものを多くの人が体験する機会にもなった 感染症によって人が死ぬことと、経済の停滞によって人が死ぬこと、トロッコ問題が哲学的な思考実験ではなく現実の問題となった SNS上には怒りが満ちあふれていて、それに触れることによる自分の精神への悪影響を避ける気持ちになった。これは以前から自覚している「怒りは身の毒」の考え方だ これは身勝手な逃避なのかもしれない
周囲が怒りの毒に満ちているときには、自分が毒を喰らわないように最新の注意が必要だ。ウイルスに無自覚に感染して撒き散らすことがないように、というメタファーは心にも同様。怒りに感染して、その怒りを増幅して撒き散らさないよう、自分の心の動きを見つめる。この活動によって自分の価値観がより明らかになった。自分はどうやら他人の人命にはあまり興味がない。反面、教育機会が損なわれることには抵抗を感じる。文明に対する罪という考えにつながっていった。高齢者が何人か死ぬとしても、長期的にみればいずれ死ぬ人が少し早く死ぬだけなので文明に対する損失は大きくない。一方で例えば高校生大学生の教育機会が失われることは長期的にみて大きな損失になる。 たぶん実際に命の危険を感じてる人にとっては自分の命が大事だろうし、今経済的に死にそうな人にとっては長期的な文明の得失なんて絵空事なのだろうと思う。なのでこの価値観にマスのコンセンサスが得られることは期待していないし、それで良いのだと思っている。
一方で、その明らかになった自分の価値観を踏まえて考えたときに、今自分が何をなすべきであるのか、に関しての答えが見えない
元々僕の仕事は「何をなすべきか」を自己決定するタイプのものであった。
COVIDの影もなかった去年までは、自分の知的生産のプロセスを掘り下げ言語化する「エンジニアの知的生産術」のプロジェクトが終わって、そこで示唆された今必要な電子的知的生産支援ツールの開発と、言語化したものの多国語展開がなすべきことだと考えていた それが本当に正しいのか?
自分のなすべきことに対する確信は、物事をなすための重要なリソースだが、これは何によって得られるのか。
ここ数週間、アルゴリズムの勉強に時間を割いている。陳腐化しにくい知識の獲得に時間を投資するのは、僕の今までの人生の中での成功パターンだった。しかし今これをやるのは明らかに正解ではない、過去の成功パターンに逃げ込んでいるだけだ。
うーむ、こういう話の流れにする予定ではなかったのだが、数年後の自分のために状況説明から始めたら重たい感じになってしまったな。
当初の予定としては
在宅勤務で運動不足、通勤は意外と継続的な運動になってた
摂取してる栄養を一旦きちんと計測してみたら、タンパク質不足だった
40歳になるまでに標準体重の範囲に入れて、それを10年維持したい
ぐらいのつもりだったのだが。