文字情報は本質なのか
nishio 僕は現時点でも「文字情報」を「本質」とは思ってないので、「本質」という言葉に感じてる意味に食い違いがありますね >kmizu: ちなみに「本を読む」が良いかは別の話で「文字情報」はやはり本質であり続けるだろうってのが私の主張ですね。
kmizu なるほどなるほど。だとすると「本質」の意味の違いはあえておいといて聞いてみたいんですが、西尾さんにとって世界を認識するためにとって本質的な役割を果たしているものはなんでしょうか? kmizu あ。付言しておくと、私は正確には「言語」が世界認識において「本質的な」役割を果たしていると思う立場で、そのシリアライズ形式として長年使われてきた「文字」もやはり重要であろうと思う感じです。 nishio 世界の認識の話はしてなかったのでまずこちらの脳内にあるものを出しておくと、脳内イメージとしてまずSECIモデルの図があって「いや文字が本質ではないだろ」が先にあり、それを事後的に言語化すると「暗黙知が表出化されて形式知になり、それが内面化されて暗黙知になる」というサイクルにおいて言語は表出化の一手段に過ぎず、例えば製品プロトタイプにおいて粘度やブロックで形を作って「こういうの」というような「非言語的な表出」があるのは当たり前の観測事実。表出の一部である「言語としての表出」に、さらに音声によるものと文字によるものがある。 nishio 技術発展の歴史的経緯において、たまたま「文字の形で表出化された形式知」の保存・複製・流通のコストが真っ先に安くなったため、その形での形式知が市場の大部分を占めていた時代があった。これは単にある時点での技術の生産可能性フロンティアにおける最適解がそこだったというだけに過ぎないので技術の発展によって各種のコストが変わると、市場のシェアは当然変化しうる。動画共有コストが下がったことによって動画を作成共有するビジネス「YouTuber」という職業が成立したのもその一環である。実際にそういう「新しいモダリティの形式知」がシェアを増やしつつあることが観測事実だ。 nishio 動画という形式の知識共有は、YouTuberに限定されない。大学の講義動画共有や、動画視聴形式のe-Learningサービスなどの形で、難しい専門的知識の伝達の目的で多くの専門家が適切な手段と判断して採用している。 nishio このように新しい知識表現・知識共有の形が広がることが、まずは動画配信、次にビデオ会議の形で広まり、市民権を得つつある。これとは別の流れとして、文字の形での知識表現に関して「読んで解釈し、生成することができるシステム」が発明された。それがLLMだ。これはここで止まるものではなく「動画を見て理解し、動画を生成して表現ができるシステム」が次に生まれる。2024年の現段階ではSoraが動画を作って「すごいな」「でもショートクリップが作れるだけだよね」となってるが、これは現時点の到達点に過ぎない。いずれ「概念を伝搬するための動画」を人間が作るのより低コストにAIが生成するようになるだろう。動画もゴールではなく、VRによる没入体験や、まだ効率的な方法が発明されていない視聴覚以外の感覚の「伝達」の技術が発展し、データが蓄積し、それによってそれらの「生成」が可能になる。この大きな技術的トレンドの始まりの地点に2024年の我々は立っている。 nishio と、僕の中にはこういう世界認識があるわけなので、そこに「文字が本質」というプロンプトを入れると「いや違うだろ」が出てくるわけですね nishio 遡って世界の認識に関しての問いに対しては、ここで話したように「非言語的な表出」が存在すること「世界の認識」に関して「言語」が本質ではないということがわかるだろう >nishio: 言語は表出化の一手段に過ぎず、例えば製品プロトタイプにおいて粘度やブロックで形を作って「こういうの」というような「非言語的な表出」があるのは当たり前の観測事実。表出の一部である「言語としての表出」に、さらに音声によるものと文字によるものがある。
nishio これを見てる人のほとんどは自転車に乗れると思うけど、つまりそれは「自転車を倒れずに操作して前進させるための操作」を「認識」してるってことですよね。それは現時点ですでに言語的に表現されているものですか?そうでないなら「世界の認識は言語によって行われている」の反例になるのでは? nishio このスレッドの冒頭にあった「SECIモデルの図が頭にあって」の時点で「シンボルの一次元の列」ではない情報表現をスタートにしているな。図は絵と字の組み合わせであって、「絵だけ」「字だけ」での表現よりも良いものを作ろうとした結果として生まれる。図解の存在が文字では不足なことの証拠だね kmizu そうですね。文字「だけ」が必要十分だとは思いません(さすがにそんな極端な主張をする理由がないので)。 >これを見てる人のほとんどは自転車に乗れると思うけど、つまりそれは「自転車を倒れずに操作して前進させるための操作」を「認識」してるってことですよね。それは現時点ですでに言語的に表現されているものですか?そうでないなら「世界の認識は言語によって行われている」の反例になるのでは?
kawahiii この辺の言語と世界認識に関しては記号論やサピア・ウォーフの仮説(強い仮説と弱い仮説がある)で扱われてる話と近いなと思いました。 nishio この一連の話、しばらく経つとあちこちから言語哲学とかのリプライがいっぱいつくのではないかと期待しています kmizu 言語哲学方面は私も不案内なので、面白い話が聞けるといいですね。 kmizu なるほど。なんとなくおっしゃりたいことはわかりました。AIなどの急速な進展と今後も凄い勢いでの進展が見られるだろうという予測については同意見です。 その上で、大多数の人間の適応が追いつかないんではってのが最近思うことですね。動画が台頭しても受け取った側はそれを文字の形で記録して学習していることも多いわけで、決定的な転換点にはなりえていないってのが正直な感想です。
「文字」を決定的に駆逐する新技術については現在研究中のものを含め色々ありますが、少なくとも我々が生きている内にはたとえ実用化されても人間側がボトルネックになりそうといいますか。
未来は不明なのでこれも外れる可能性はありますが。
nishio あるシステムにおいて部品Xがボトルネックなのであれば、システムエンジニアはその部品を別の部品と交換することでボトルネックを解消するために知恵を絞るでしょうね kmizu そうですね。ただ、知恵を絞ったとしても「世代交代」なしにはどこか限界があるだろうなって気はします。気がするだけで確信はないですが、現時点だってAIどころかスマホを十分使いこなせてない人が(老年層どころか中年以下の層でも)ごろごろいるわけですし。 nishio.iconあなたは言語哲学に詳しい哲学者である。下記の会話を見て、適当な位置で引用をして哲学的知見を関連づけてコメントせよ。
gpt.iconこの会話から、言語と情報の表現形式がどのようにして「本質」として理解されるかという興味深い問題が浮かび上がります。特に、kmizu氏とnishio氏の議論は、言語哲学の視点から非常に重要な示唆を与えています。
kmizu氏は、言語が世界認識において「本質的な」役割を果たしているという立場を取り、これは言語哲学においても広く探究されるテーマです。特に、ウィトゲンシュタインが指摘した「言語ゲーム」の概念が思い起こされます。ウィトゲンシュタインによれば、言語の意味はその使用法に依存し、言語は我々が世界と交渉する一つの手段に過ぎません。これはnishio氏が提唱する、言語が多様な表出の手段の一つに過ぎないという見解とも符合します。 さらに、nishio氏はSECIモデルを引用し、暗黙知と形式知の間の動態的な交換を強調しています。これは、ポランニーが「暗黙の次元」で議論した「暗黙知」の概念と通じるものがあります。暗黙知は、言語化や形式化が困難な非言語的な知識や技能を含みます。nishio氏の言及するように、非言語的な表出(例えば、製品のプロトタイプを形作る行為)は、言語や文字とは異なる本質的な役割を果たす可能性があると考えられます。 これに関連して、言語哲学におけるサピア=ウォーフの仮説も重要です。この仮説は、言語がその話者の世界観や認識を形成すると主張し、kmizu氏が言語を「本質的」とみなす根拠ともなり得ます。しかし、nishio氏の議論は、この仮説に異議を唱え、多様な知識の表現・共有手段の存在を示唆しています。 最終的に、nishio氏が指摘するように、新しい技術(例えばAIによる動画生成)は、言語や文字に代わる新たな表現手段としての可能性を開いており、これは言語哲学における「本質」の概念を再考するきっかけを提供しています。したがって、言語が単なるコミュニケーションの道具である以上に、その表現や認識の限界を理解することが、現代の技術文明において不可欠と言えるでしょう。
nishio.iconもっと色々な哲学要素と関連づけて
gpt.iconこの議論は、言語哲学のみならず、認識論、現象学、技術哲学とも深く関わる多面的なトピックを包含しています。ここで取り上げられた各要素を、これらの哲学的枠組みと結びつけてさらに掘り下げてみましょう。
認識論
認識論では知識の性質、起源、範囲、およびその構造を問います。nishio氏が参照したSECIモデルは、知識の形式間での変換(暗黙知と形式知)を描いており、これは認識論的な問いに直接関連します。エピステーメー(知識)とドクサ(意見)の古典的な区分に基づけば、形式知はより確かな「知識」として認められる一方で、暗黙知はしばしばドクサ、つまり「より不確かな知識や直観」とされがちです。しかし、ポランニーの暗黙知の概念は、これら不確かな形態の知識も重要な役割を果たすと主張し、認識論的な議論に挑戦を投げかけます。 現象学
ハイデガーの現象学は、人間存在の基本的な構造として「世界にある存在」という概念を導入します。ハイデガーは言語を「存在の家」と見なし、世界の中で私たちがどのように存在し、物事を理解するかに言語が不可欠であると主張しました。nishio氏の議論において、非言語的表出が重要な役割を果たすという点は、ハイデガーが言及する「道具としての在り方」と相関します。即ち、道具(技術や手法)は、それ自体が前景に出ることなく、我々の世界認識を形作る背景に溶け込むのです。 技術哲学
技術哲学者のドナ・ハラウェイのサイボーグ理論は、テクノロジーと生物学的存在の境界が曖昧になる現代世界を批評します。nishio氏の言及する、AIによる動画生成や将来的な感覚伝達技術の進化は、人間とテクノロジーとの関係を再定義するサイボーグ理論の具現とも言えるでしょう。ここでは、テクノロジーが単なる道具ではなく、人間の認識と共生し、それを拡張する存在として理解されます。 プラグマティズム
最後に、プラグマティズム、特にジョン・デューイの作品を参照すると、知識の有用性と実践性が強調されます。デューイは、知識は静的なものではなく、実践的な活動を通じて生成されるプロセスであると主張しました。nishio氏の動画やその他のメディアを通じた知識共有の変遷は、デューイの見解を反映しています。技術の進化は、知識の形態や共有の方法をどのように変えるか、という点でプラグマティズムの核心に触れています。 これらの哲学的枠組みを通じて、nishio氏とkmizu氏の議論を再考することで、言語と技術がどのように絡み合って人間の世界認識を形成し、変化させていくのかを深く理解できるでしょう。
感想nishio.icon
ハイデガーやサイボーグと関連付けて考えたことはなかったので新鮮
言語的相対論または言語的相対性原理、サピア=ウォーフの仮説は、「どのような言語によってでも現実世界は正しく把握できるものだ」とする立場に疑問を呈し、言語はその話者の世界観の形成に関与することを提唱する仮説である。 --- 言語的相対論 - Wikipedia 「ある人Pが言語Aを使うことによってその話者Pの世界観は言語Aの影響を受ける」という点には賛成
これは「言語が世界認識の本質である」ということを意味しない。影響する要因の一つに過ぎないから。
これにも賛成
で、そう考えると、今Pさんが使っている"シンボルの外部操作をコントロールする手段"はPさんの"知的活動する能力"に影響する
技術の進歩によって"シンボルの外部操作をコントロールする手段"は文字で表現された「いわゆる言語」を超えて広がっている
gpt.icon
サピア=ウォーフ仮説とその適用
nishioさんが指摘するように、サピア=ウォーフ仮説は言語が世界観を形成するという観点から、言語と思考の関係を探るものです。ここで、nishioさんが仮説の「弱い形」には賛成しつつも、「言語が世界認識の本質である」という強い形の主張を受け入れない点は、言語が多くの影響要因の一つに過ぎないという見解を示しています。これは、言語が思考に影響を与えるが、決定的ではないという立場です。
ネオ・ウォーフ仮説と技術の役割
エンゲルバートの提案するネオ・ウォーフ仮説に賛成すると述べる点では、技術が知的活動に与える影響を重視しています。この見解は、言語的ツールだけでなく、技術的ツールもまた、我々の認識能力や表現の範囲を形成し、拡張するという理解に基づいています。ここでの「シンボルの外部操作をコントロールする手段」とは、言語的ツールの伝統的な枠組みを超えて、ビジュアルメディア、インタラクティブなテクノロジーなどを含む広範な手段を指します。
言語と技術の統合的視点
この議論から派生する一つの重要な点は、言語とテクノロジーがどのように組み合わさるかという問題です。言語は単なるコミュニケーションのツールではなく、思考の枠組みを提供するものとして機能しますが、技術はこの枠組みを拡張し、変容させる力を持っています。例えば、AIや仮想現実(VR)技術は新たな認識の形式を提供し、これが思考や表現の新しい可能性を開くことになります。
結論
これらの点を考慮すると、nishioさんの見解は、言語哲学だけでなく、テクノロジーとの相互作用を含めたより広い範囲の哲学的探究に貢献しています。言語と技術の融合は、私たちの世界を認識し、理解する方法に根本的な変化をもたらす可能性があるため、このトピックは今後の研究や議論においても重要な焦点となるでしょう。
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SECIモデルの共同化などはそれを擬似的に実現する手段