文字の集まりとしての本
書籍が「文字の集まり」という形式なのは、活版印刷によって複製コストが安くなったとき、コスト低下の恩恵を受けるのが「文字の集まり」だったから。 その結果、活版印刷で書籍の流通量が増えたときに「文字の集まり」の形のものがデファクトスタンダードになり、人々は「書籍とはこういうものである」と思い込んだから。
現代
文字の白黒二色ずりに比べるとカラー印刷は追加コストが掛かるが、大したものではなく、カラーの本が普通に流通する
デジタルでは図版が入っても流通コストが上がらない
製造コストが上がる
通常のフローでは著者が図版の下書きを描き、イラストレーターが綺麗に仕上げ、それを著者がみて微修正のフィードバックをし、というような感じ
これが高コストなのは「書籍の図がどういう見栄えであるべきか」に関するアンカリングが高いから 「その品質が本当に必要なわけではないが、よくみるものがその品質であるがために、その品質が必要だと思い込んでいる」状態
その高い「思い込みの要求水準」を満たすことが著者単独ではできないためにイラストレーターの清書フェーズが必要になっている
特に10年前だと著者が作れるものが「手書きの絵の写真を撮ったもの」とかだったのでそのままの掲載が困難だった(コントラストが低い、背景が抜きにくい)
今ならiPad +Apple Pencilで書けば均質な背景にはっきりしたコントラストの線がのる
パス形式で描いてPDFで出力すれば後からの編集も可能
これは破壊的にする余地があるのでは
つまり提供する図のクオリティを「イラストレータが清書したもの」から「著者が描いたもの」に下げる
図版が低コストになることによって図版をもっと増やすことができる
市場が求めるものが「もっと図版の多い解説」であるなら売れるはず