情報発信の歴史におけるScrapbox
2017-05-31
かつてWeb上の情報発信は静的なHTMLだった
ブログという形で発信コストが下がり、発信者が増えた
Twitterなどの「マイクロブログ」の登場
特にTwitterの厳しい字数制限が「きちんとした文章を書かなければ世界に情報発信してはいけない」という固定観念の破壊に寄与した。最初から完璧を目指さない 発信者がさらに増えた
増加した情報発信の大部分はゴミ
だが、量が増えたことと、早くリリースされるようになったことが価値をもたらした。アジャイル開発的情報発信。 Togetterなどの事後的構造化サービスの登場
一方でTwitterに書き散らされた断片的な情報を、事後的に「まとめたい」というニーズが高まる
そのニーズにこたえるサービスが現れる
自分でもまとまりきってない考えに関して「一人でまとめてからブログに書く」ではなく、まずTwitterやFacebookなどに書き散らし、他人の反応などをふまえて後からまとめる執筆スタイルがが現れる
Scrapbox
断片をその他の断片とリンクを保った状態で公開できる
個人的には「リンク」が既存の概念とかぶっていて誤解をする人もいると思うので「道」のメタファーを使いたい
断片を公開した時に、そこから他の概念への道が繋がっている
「あとでこの道の先にページができる」という道もある。
事後的に構造化される
その構造化をScrapbox自身の機能が支援してくれる
プログをScrapboxにして以来、下書き状態からすべて公開しています。
でも実際にはブログに載せていない文章がたくさんある。きっとその方が圧倒的に多い。勿体無い。
非公開設定で使っている個人プロジェクトを見直してみると、確かに公開できない内容も含まれていますが、公開してもいい内容も多い。
本当に公開できない内容以外は大公開する
What's next?
ボット?
他のヘビーユーザーのユースケースを見ていると、複数人で使うことによるメリットが高い
一方で僕は「自分の著作」の境界があいまいになって欲しくない
人間でなければいいんじゃないか?
概念のネットワーク、という形の入力が与えられる
ボットは脳内にWikipediaの情報ネットワークを蓄えた状態でやって来て、僕のネットワークの上をさまよいながら適当にWikipediaからの引用を付けて回る
いかなる人間もWikipediaの全情報が頭に入ってはいない、一方でコンピュータにとってそれほど無茶な分量ではない
執筆・読書のあり方への影響
現状の執筆スタイルはウォーターフォール開発っぽさがある
アジャイルな執筆スタイルにもメリットがある
僕の今書いている本はウォーターフォールで書いてるけど、前々からアジャイルにしたい気持ちはある
「目次案」という設計図面が先に決まってるけど、実際の「執筆」という実装は3週間のイテレーションごとにレビュワーにリリースという意味である種アジャイル開発ともいえるのかなー
目次案は設計図面ではなく、出版社が書いて欲しいと思っている「顧客の要望リスト」だと思えばいい?
まあ実際、必要だと思ったら目次自体を修正できるからなぁ。
一冊本を書くと、整形の過程で切り落とされた「書けなかったこと」「書いたけど使われなかったこと」がたくさん出る。これをScrapboxで構造化して続編を出すとか。