弱者とマイノリティ
2024年時点の僕は「弱者」と「マイノリティ」を、なんらか相関のある、似た方向性の言葉であると認識していたが、これは既に社会によってバイアスを受けているのではないか、という気づき
そもそも交換様式Bが生まれてから長らく、少数の有力者が大勢を統治していたわけだ
この時、強者がマイノリティである
ところがこれに対するカウンターの動きが生まれる
ニーチェが「奴隷道徳」と呼んだものだ
「多数派は善である」「少数派は悪である」
多数決によって集団的意思決定をすることを正当化する
「民主主義」というムーブメント
トクヴィルは「多数者の専制」という言葉で批判している
多数派が自分たちに合わせて統治を行うことで少数派は割を食う
強者で少数派の場合、まあ少し下げられてもまだ強者だったりする
普通の少数派の場合、下げられることによって同等の多数派よりも弱くなり「弱者」が作られる
ノンバイナリのスポーツ選手のことを考えていた
女性として生まれ、生きてきた、男性の染色体を持つ選手
IOC「女性として生まれ、生きてきた」…正当性を強調 女子ボクシング「男性の染色体を持つ」選手(2024年8月3日掲載)|日テレNEWS NNN
パリ五輪で「トランスジェンダーの元男性が女子ボクシングに出場して勝利した」は誤り。生まれつき女性(篠原修司) - エキスパート - Yahoo!ニュース
そもそも「男性」と「女性」がいて、混ぜて試合をすると女性の側が不利だとする
つまりこれはマイノリティかどうかと無関係に、そもそも身体的特徴として女性が弱者なのである
弱者である女性でもスポーツを楽しめるように、男女別リーグにわけるアパルトヘイトを行ったのが現状
ここに「男女2種類にわけることが困難なマイノリティ」が現れる
「マイノリティは弱者なので配慮が必要」という風潮により、本人の自認にしたがって女性リーグに入れたら、身体的特徴のせいで「強者なマイノリティ」になってしまった
シンボルレベルの思考とベクトルレベルの思考