卑下は思い上がり
仏教には「卑下慢」という大事な言葉があります。卑下とは、さげすむという意味です。慢とは、「自慢」の「慢」で「思い上がり」ということです。仏教においては「自分はだめだと評価すること、落ち込むことが思い上がりである」ということです。 「自分はダメだ」と卑下する時「自分」が「ダメだと言われる対象の人A」と「他人に対して自分の基準でダメだと評価している人B」に分裂していて、Bの振る舞いが思い上がり。 なぜなら「ダメだと評価すること」は暗黙に「自分は人を評価することができる」という「自分の正しさ」を前提しているから。
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昔、自分を卑下する発言をしたら自分より経験が浅いメンバーに「あなた以下の自分たちが悲しくなる」と怒られたことがある。自分の中ではより強い人との比較でしかないのだが、あまり言わん方が良いと思った。
「自分はダメだ」と心の中で思うだけなら他人に影響を与えないから問題少ないが、外に出した場合自分以外の人にも「お前はダメだ」というメッセージになってしまう
「思い上がった発言で他人を傷つける」という残念なパターン
nishio: Twitterで「自分は大したことない」と発言した人を自動的に「大したことない人間のリスト」に追加するボットを走らせたとして、追加された人が怒りを感じたなら当初の「自分は大したことない」は本心でないことがわかる。怒ってきた人は別のリストに追加しよう。 nishio: 仏教では卑下が思い上がりであるとしても、心の中で思うだけなら他の人に影響しないから問題はない。しかし「心の中で思う」と「SNSに書き込む」は別物で、例えるなら家の中でノーマスクするのと不特定多数が使う公園でノーマスクするのが別物であるのと同じ。 nishio: 「憧れの先輩Aさんは自分よりもすごい、自分なんて大したことない」みたいな状況で「Aさんは自分よりもすごい」を削って「自分は大したことない」にするのはネガティブな側面にフォーカスした過度の一般化だよね。同じ状況ででも「先輩はすごい!見習わなきゃ」とポジティブなツイートをする人もいる。 関連