信じる力と信じない力が必要
信じない力:
社会が合理的に設計されていると信じてはいけない
マニュアルに記述があると期待してはいけない
マニュアルに書かれた解説が正しいと仮定してはいけない
信じる力:
大勢の一般人が解決している課題には、必ず解法があると信じて良い
その解法は高度な思考なしにたどりつけるところにあるはずだと信じて良い
2019-11-10
僕: らくらくメルカリ便とゆうゆうメルカリ便が違うものだという認識がなかった
妻: 夫は世の中のシステム設計が整理されていると信用しすぎだ。合理的であると思い込んでいるし、合理的であるべきだと思っている。しかし実際の世界はそうではない。信じる力と信じない力が必要 妻: 適切にマニュアルが整備されているとか、ちゃんと動作することをチェックされているとかを仮定してはいけない。作っているのは人間だから失敗がある
僕: 一方で信じる力とは、誰もできないとするともっともめているはずだから、必ず解法が存在するはずである、という仮定?
妻: そしてそれはある種の素直さがあればたどり着けるものであるはずで、"高度な頭脳を駆使しなければたどり着けないようなタイプの解"ではないという仮定
2021-08-03
読み返してみて頭に浮かんだイメージ
https://gyazo.com/26dcd57be7577992abeee40c4d2cfc46
A: 世の中には「草がボウボウに生い茂ったところ」と「大勢に踏まれて草が減ったところ」がある。
B: 多くの人は看板の指示に従って進んでいても草ボウボウのところに来たら「この先じゃないに違いない」「看板が間違っていたのだろう」と考える 「看板が正しい」と信じない
「草の少ないところにゴールがあるはずだ」と信じる
「こんなよくわからないことをするはずがない」と考える
なので「ちゃんと指示が書いてあるのに読まずに適当な操作をする」などの問題も起きる
C: 僕は草がボウボウでも看板を信じて直進し、岡や岩山に登ってしまう。
たぶん看板を強く信じてるというよりは「草のないところにゴールがあるはずだ」って発想の転換が苦手なのではないか
だって研究って「踏み荒らされて草のないところ」には答えがなくて、自分を信じて草ボウボウの中をひたすら直進した先に答えが見つかるものじゃない?荒地を突き進むたとえ 関連
これも草ボウボウなのをみて「草ボウボウでないところに答えがあるに違いない」と考えてしまう現象なのだな