コミュ力と間主観性
神によって客観的真理の存在が担保されていた時代の終焉とともに「客観は実在し得るのか」という議論が起きて客観を置き換える形で間主観の概念が生まれた それがなぜコミュ力に関係しているのか?
客観は外部の権威(例えば神、現代においては偉い人の書いた本など)によって「何が正しいか」を決めようとするのに対して、間主観は当事者同士が主観を持ち寄りすり合わせることで「何が正しいか」(何を正しいとみなすか)を構築していく
お前は間違っている、なぜなら教科書にこう書いてあるからだ」という態度と「あなたはそう思うんですね、でも私はこう思うんです、歩み寄れるかな?」という態度の違い
外部の権威に頼ってバッサリとコミュニケーションを切ってしまうのではなく、相手の話を聞いて間主観を作り出していこうという態度にコミュニケーション能力の高さを感じる、という感じ
以前にラボで事実と解釈、客観と主観の境界について議論になった時
(「五感で明らかにわかるものが客観だ」というあからさまにおかしい定義に対して「いやドレスの色が青か白かで議論になってるやん」とツッコミが入った)
実用上の利益の上では客観と主観の区別は重要ではなくて、主観であっても合意が取れたなら客観として扱って良いのでは、って話になったんだが、それが「間主観」だったのだな
噛み合わない主観で争っている状態で「主観的な解釈ではなく客観的な事実に基づいて話をしよう」という思考パターンが有益なのは、それが主観であるか客観であるかが重要なのではなくて、「食い違いの発生している主観は置いといて、もっと合意の取れる主観を探して共通の土台としよう」ということだったのだな
「真に正しい客観」などというものは存在せず、当事者間での主観の擦り合わせによって「共有された主観」が作られる、それを「仮の客観」として進んでいけば良い、という世界観。これが「客観」から「間主観」への変化ということか。
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