どういう時に無知がリソースになるのか
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nishio 知識によって探索範囲を狭めることができて、効率よい正解の発見や意思決定ができる。その成果を実感していると、知識による範囲限定を使わずに探索をすることが非常に不効率で時間の浪費に感じてしまい合理的な精神でそれを選択できなくなる。しかし環境は常に変化しているので解の分布は変わる
nishio 無知な人はこの探索範囲の限定がないので、限定があれば容易に気付けるかいに解にたどり着けてないことがしばしばあるのに対して、限定のせいで気づけていない解に気づく確率もある。ここで、この「解」自体も知識であり階層構造になってるところが重要だと思った
nishio つまり「知識のある人Aとない人B」というのはあるレイヤーでの知識の有無で、そのレイヤーでの知識がないことによってBはAより広い範囲を非効率に探索し、その結果別のレイヤーにおいてAが持たない知識を持つに至る可能性があるわけだ。この構図があるから「知識のある人ない人」というラベルは不適切
nishio だから究極的には「探索範囲の異なる人間の遭遇は有益」ということになる。先行プレイヤーAは価値の湧き出しポイントをすでに見つけ出してそこから利益を得ているのに対して、後発プレイヤーBはそれを探しつつある。ここで「湧き出し」が水のように奪い合うものであるならBはAに教えるべきではない
nishio 興味深いのはこれがsupermodularなケース。Bが見つけたまだ小さな湧き出しポイントをAに教えると、湧き出し自体が成長してAの利益もBの利益も増える。こういうタイプのプラスサムのゲームをプレイしていることが大前提だ。その条件下で探索範囲の異なるプレイヤーに地図共有のインセンティブが生まれる
nishio 実際には地図だけ共有されても参入障壁があって取りにいけないリソース湧き出しもある、世界には壁や膜やゲートがある、すべてがパーミッションレスに入れる場所ではない
nishio 「無知はリソース」という抽象度高すぎる表現が謎にウケてしまって、「無知は常にリソースというわけではない」という至極真っ当なツッコミがあったので、どういう時に無知がリソースになるのかをもう少し詳細に言語化してみた
nishio 人類は希少なリソースを奪い合う社会には慣れてる。「奪い合い」とは「ユーザが増えると一人当たりの得る量が減る」ということであり、安価に複製可能なデジタル財には成立しない。人が集まってコントリビュータが増えるとむしろ利得が増える。これは人が集まるほど湧き出す水の増えるオアシスだ
nishio 欠乏ではなく過剰。過剰だと何が問題か、例えば選択肢が増えると探索コストが増える、ここで最初の話につながってくる。情報が豊富になると注目が希少なリソースになる。人を呼び集める、注目を偏らせる手段が重要になる。そこで正統性が希少なリソースとなるわけ。
nishio 正統性が希少なリソースになっていくなら、正統性をどうやって作るかの正統性エンジニアリングや、正統性マネジメントが有用になるわけだ。地球規模の正統化に、インターネット以前に発明されたローカル正統化手段は貧弱な力しか持たない。地球規模の新しい公衆が新しい正統化を生み出していくプロセス