メディウムとしてのオシロスコープ
「新しさ」というものが、過去と違うものが新しいのではなくて、
自分にとってオシロスコープとの出会いとは、
意識してすらいなかった映像そのものが
物理的な電気信号という形で音と手を携えて急に立ち上がってきてしまった、
という意味で新しいメディウムだった
たんなるノスタルジックなレトロ懐古とは違うとおもう
どちらかといえば、速度の速いテクノロジーの発展の中で忘れさられ埋もれてしまった過去の可能性を掬いだす、
メディア考古学に近いとおもう
アナログオシロスコープというモノを使う理由については
おそらく抽象的なレベルでは必要のないことだと思う
なぜなら電気信号であればいいだけなので、
つまりソフトウェア的に再現可能であるから
だけど具体的なモノとしてあるとき
たんにアナログ-フェティッシュさを越えて、
―またあるいは「デジタルよりアナログの方が綺麗」であるとか、コンピュータのようなメタメディアではないから限られた用途にしか使えず、つまり電気信号の波形を表示する以外できないために小細工をしていない見かけ上の保証になるとか、そういうことだけでなく―
<モノの衝撃>というのがあるとおもう
モノがそこにあること、存在すること(...この存在への関心は、かつて大学生のときに哲学をかじっていたからなのだろうか)
そしてそれは突如として(理不尽に)ぶっ壊れること
モノがぶっ壊れるとき、ふと我に返る――作品に対して強制的にメタ化してしまう
そういうモノが
映像には必要だったような気がしている