ひび割れたコギト・エルゴ・スム
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nagasena.iconドゥルーズが好む「ひび割れ」(亀裂)という言い回しは、本人がよく引用するフィッツジェラルドの短編「亀裂 the crack-up」(→比較的最近、村上春樹訳で出版されているので読めます)
『差異と反復』で論じられるテーマ
近代哲学の確固たる基盤(疑い得ない)テーゼとしてデカルトのコギト・エルゴ・スムがあった
ここに「時間形式」による「ひび割れ」を見てとって、それによって分裂している「私」がそのまま実在してしまっていることを見事に指摘した
ドゥルーズによれば、これはカントが最初に発見したものという
〈私〉はひび割れた存在である
にも関わらずそのまま実在する
ひび割れたコギト・エルゴ・スム
「私は思う」「ゆえに」「私はある」 
(「思考」 → 「存在」)
①「私は思う」のまえに、そもそもの前提として、「私が思う」ような場が必要
それは物理的な場というよりもむしろ、理念的な場がなのだが、それが第一に規定されていない
(人間が思考するためには当然、物理的な場が必要なわけだが、存在論で問われている領域においてはひとまず二次的である)
(ほんとうに二次的か、は余地ありだが、それは理念的な意味での存在論に限定しよう)
場が規定されていない(未規定状態)のまま、「私は思う」
未規定状態のまま、というのは、ようするに(第一段階では)「私がある」というのが規定されてないのによくわからないままに場として存在してしまっていること
②「ゆえに」は、「私は思う」→「私はある」の間の時間形式とされる
「私は思う」が、「ゆえに」という時間形式によって「私はある」が規定される可能性が提示される
③「私はある」が、ついに「私は思う」によって規定される
このとき、「私」は、存在と思考に裂けている
コギト・エルゴ・スムによって綺麗に「私」が確定したとおもったら
存在を規定しようとする思考は、つねに(そのまさにこれから思考によって規定するべき)「存在」を場所として前提としており
一方で、思考がなければ規定されない存在なるものが、よくわからないままにある
「存在」と「思考」が相互に絡み合っているといえば、シンプルで聞こえはいい
ともかく、そういう割かれた思考と存在の統一体として「私」がある
亀裂のまま
nagasena.icon「ゆえに」が、時間形式としてみなされているのが不思議といえば不思議。論理記号(∴)というか接続詞かと思っていたけど、よく考えれば、時間的な、先行原理を前提としてはいるのか
では論理そのものが時間形式に貫かれているといってもいいのか
ある種の、流れではあるし
「時間形式」によって「割かれた」という言い回しがいまいち完全に腹落ちしたとは言いがたい