詰まらない本は、本が下らないのではなく私がその本に迄屆かないからだと考へておくのが好い
詰まらない本は、本が下らないのではなく私がその本に迄屆かないからだと考へておいた方が好い。本に待たれてゐるのである
詰まらないと云ふのは trivial だ、自明だと云ふ事、或いは書いてある事が自明でなくとも何故重要なのか解らないと云ふ事を謂ひたいのであって、この本は閒違ってゐると反感を抱く本はここで謂ふ詰まらない本ではない。しかしこの區別が附き難い事も有る。いつも區別が附き難いのではなく、自明に區別出來る時と、曖昧に、反感を抱くのか詰まらないのかを反省しても判らない時とが有るのである。さう云ふ時は詰まらないのと嫌いなのの兩方だと思っておく
ずっと詰まらない儘で有る本も多い。それがいづれ私が到達し得る、到達を目指す價値の有る本なのか、只下らない本であるのかは結局區別が附かない。附かないものなのである
待ってゐる本の價値ではなく、本が待ってゐる事の價値、その本の待ち方の價値であるかもしれない。その價値は自意識の表現としての價値 (眞 + 善 + 美。大衆の原像) とは違ふ槪念かもしれない。その本に於ける交通 (對話、passe) の持つ價値 (非僞 + 非惡 + 非醜。關係の絕對性) なのである 詰まらないと思ってゐた本が突然思ひ出され關心が持たれた時、嗚呼この本に屆いたのだと思ふのである。それは作者に屆いたのではないかもしれない。本の主題、主題達の一つに屆いたのかもしれない。統一を假定され單一だと見做された作者ではなく、作者達の一つに屆いたのだと考へれば作者に屆いたのだと謂っても好ささうだと思へる。 恩寵。悟達
培養
意圖を書いた作者が、滋養にする讀者が、登場人物が待ってゐたのではない。文字が、本が待ってゐた
「詰まらない本だ」とは思はず「詰まらないと思ふ本だ」と思ふ。「いつかこの本に辿り着く、旅路で探し當てる事も有るだらう」と思ひ「何としてもこの本を素晴らしく見出さねばねらぬ」とは思はない。その本が姿を變へた岩に腰を下ろし結緣されてゐたと知る時はあらう。知らず「この岩こそが探し求めてゐるものの筈だ」と大事に抱へ込んで餓へ死にするのではない。岩は keyword (「keyword・thesis を抽出する」pattern) の事である。突如、詰まらなく思ってゐた keyword が、今眞にと思ってゐる目的に寫り込んでゐる事に、昔詰まらないと書棚に戾した本が強い縄と成ってその岩を手繰り寄せられると知る一瞬が來る。鋭く振り向くが好い。作者と讀者と登場人物とが誤って一つの腦に寫り込んだ、一步步けばもう思ひ出せない。 .。oO(さっちゃんですよヾ(〃l _ l)ノ゙☆)。おはやうございます。
皆さん、本屋に行きますか? 書店、古書店、新古書店。私は 55 週連續で本屋に行ってゐます。
本屋に行くと本を物色します。氣になるタイトルを棚に見つけ、手に取って、眺める。詰まらない本だな、知ってゐる事しか書いてないな、棚に戾します。下らない本だな、私はさう思ひます。
でも私は經驗的に、あ、此の本だ、今探してゐたのは氣にも留めてゐなかった此の本だ、此の本しかない、さう云ふ時が來るのを知ってゐます。
偶然の配置に依って其の本に辿り着きました。本が待ってゐました。意圖を書いた作者が、滋養にする讀者が、登場人物が待ってゐたのではありません。文字が、本が待ってゐたのです。 本は下らなくなかったのでせうか? いいえ、くだらなかったのです。二つの價値が有ります。優れた本であると云ふ價値。一瞬に出會ふ煌きの價値。前者は眞 + 善 + 美の價値、後者は非僞 + 非惡 + 非醜の價値、洞ちらも價値です。
一瞬です。或る單語が、孤立してゐた單語が、あ、この語だ、今私が探してゐたのは詰まらないと思ってゐたこの單語だ。その單語を引っ張るとズルリと其の本が出て來ます。一瞬だけです、其の本が輝くのは、あ、となる一瞬だけです。その一瞬に手に取ってください。手に取れないならその一瞬に memo を、孤立してゐた其の單語の所に其の本を memo してください。其の單語は最早孤立してゐません。
以上です。