Samuel Ira Scheffler「死と後世」2013/11/14
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集合的後世 (collective afterlife)
後世に關する推測 (afterlife conjecture)
後世が存在しないと云ふ事を、自分だけが知ってゐる場合と皆が知ってゐる場合との區別は論じられてゐないne-sachirou.icon
〈われわれの活動の現實の價値が繼續中の人類史の中で占めてゐる位置に依存してゐる程度は、われわれが實感してきたかもしてないものよりも大きい〉
後世が存在しないことは、單純な快樂さえも手が屆かないものにしてしまふ恐れがある、なぜならこれらの善きものは「全體としての人閒の生」の中にしか位置を持たず、「「全體としての人閒の生」に關するわれわれのとらへ方は、〈そのやうな生それ自體が、繼續する人類史の中に位置を占めるものだ〉といふ暗默の理解に依存してゐる」から
後世による制約が無ければ、不可逆で無限な時閒觀念と資本制との下で安い給與で働く理由が有るか?ne-sachirou.icon
最も若い人々にとっての破滅的な影響が世代をさかのぼり、最後には社會のすべての人に及ぶことになるだらう。
後世が無いのならば、大規模な project や長期的な project に限らず、些細な事や個人的な事も含めた多くの事が、重要性を失ふかあるいは求めても繼續できなくなるのではないか?
態度的依存 these
〈われわれにとって重要なことは、後世の存在へのわれわれの確信に暗默のうちに依存してゐる〉
評價的依存 these
〈物事が無條件に重要である、あるいは價値を持つのは、實際に後世が存在するときに限られる〉
正當化的依存 these
〈そのやうな後世が存在するときに限って、われわれは物事に重要性を歸することが正當化される。あるいはそれらの活動がわれわれにとって重要である理由がある〉
倫理學の個人主義的・體驗主義的・歸結主義的な approach には限界があらう、と云ふ事が系として從ふ
死後の生 (life after death)
もし死後の生が存在しないならば、
宇宙は罪なき人々の苦しみを償ふことがなく、惡人の勝利をくじくことがないだらう。宇宙は罪なき人々が苦しむか否か、惡人が榮えるか否かを氣にかけない。なぜなら宇宙は何ものも氣にかけないからだ。そしてもに宇宙が氣にかけないとしたら、われわれ自身が氣にかけるといふことは無意味だと思はれるかもしれない。なぜなら宇宙が氣にかけないといふ事實は、結局本當に重要なものは何もないといふことを意味するからだ。
死後の生が無くても、集合的後世が存續すれば對論としては足るかもしれないne-sachirou.icon
人閒の自然は善惡を氣にする
不死の推測 (immortality conjecture)
比較し優位をつける判斷を伴ふ評價活動は、希少性、特に時閒的希少性といふ背景がなければ意味を持たない
われわれがこれらの物事を囘避・豫防・最小化・對處・克服・學習してそこから生き延びようとしてどれだけの努力を拂ってゐるか、これらの努力がわれわれの選擇をどれほど拘束し、優先順位をどれほど決定してゐるか
個人が不死であるならば、既に長い時閒が經って (飽きて) ゐなくても、個人の生は多くの價値を失ふ
死の恐怖
エピクロスの說
死はわれわれにとって何ものでもない。われわれが存在するとき死はわれわれのもとになく、死がやってくるとき、われわれは存在しないからだ。
結論
1. 〈死はその人にとっての不運あるいは害惡ではない〉
2. 〈人は自分の死を恐れるべき理由を持たない〉
エピクロス自身の解
アタラクシア
無上涅槃
死は人生の內の出來事ではない
自己中心的な主體
喪失や喪失の恐怖を受用する
これらの態度は、自己が引き續き存在し喪失をかうるやうな環境に適合してゐるのだが、その主體自體に向けられると、繫留點を失ふことになる。そしてそのことは panic を引き起こす、あるいはその可能性がある。
多くの人々が自身の死を考へるろきに經驗する type の恐怖は特別の種類の panic であって、それは自己中心的な主體――人の思考と態度すべての主體であって、この態度の中には、自分自身の死を考へるときに經驗する態度自體も含まれる――が存在しなくなるだらうといふ見込みが引き起こすものである、と私はすでに示唆した。この panic は、〈人のその他の態度すべて――その中には喪失と剝奪の他の實例に對する態度も含まれる――は自己の存續を當然のものとしてきたが、その自己が存續しないということこそが、今考へられてゐるのであり、自分が今持ってゐる態度自體の對象である〉といふ認識によって深刻になる。
「自分が死ぬといふこと」を恐れる、命題的恐怖は、死ぬ事が不確定ではなく確實に死ぬと確信する事で無くなる
しかし人は確信を否認できる…ne-sachirou.icon
それでも死ぬこと あるいは死を恐れることはありうる
死を恐れるのは合理的ではないかもしれないが不合理とは言へない
個人の生には、自身の死の推測と恐怖、集合的後世の存續の推測とが必要だ