Marquis de Sade「閨房の哲學」1795
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リベルティナージュ (libertinage)
放蕩。道樂
自由思想 (反宗敎思想)
用心
女を相手にするのは自分にとっては一つの放埒……いや、ちょっとした過ちであって、身を汚すに等しいことだよ。さういふことはめったにやらないものだし、用心にも用心を重ねなくっちゃならんね
悦樂の眞髓ほど出產奨励主義者からかけ離れたものはない
人口を增やしすぎた
子供ができる危險は、女陰に入れさせるかぎり、いつだってついてまはるわよ。だから、この享樂の仕方を避けるやうに心がければいいの。その代はりに、手や、口や、尻の穴を等しく供するのよ。
だったら子供は父親の血からできてゐるのだから、父親にだけ愛情を抱けばよい
雄と雌の享樂の結果として生まれた子供は、自由と權利を缺けるところなくもってゐる
たとへ蔑ろにされて、憐れむべき境遇にあっても、女たるもの、みずからを高みに置いて、慣習や偏見を見下し、自分を縛ろうとする恥ずべき鐵鎻󠄀を憚ることなく踏みつけにしてやらなくてはだめ。
もしあなたのリベルタンな父親が望んだら、さっさと樂しませておあげなさい。でも、縛られてはだめ。
疑り深い夫は、どんな狀況にあっても疑り深いまま。
その子が享受することになるぶんは、あたしの持參金から差し引かれると考へるべきであって、この子もあたしも何一つ夫から頂戴することはないのよ。
その子があたしからも分け前を享受するのは、あたしとだって緊密な關係があるから。
確かにそいつらは、われわれと同じ情念 (パッシオン) に仕へてはゐない。だけど、やはりやつらも情念 (パッシオン) をもってゐることに變はりはないし
情欲
エゴイズム。美德
神
人閒理性の限界〔nec plus ultra〕を意味するにすぎず、〔自然の因果をたどり盡くした〕理性がもはや何も見出せなくなったまさにそのとき、何とか己が務めを續けられるやうにと捏造した幻想にすぎない
こんな卑しい宗敎に對處するには、それにふさはしく、ただ輕蔑するだけでよかったんだ。さうすれば、そんなもの、この世に現れた途端、跡形もなく消え失せてゐたはずだ。ところが迫害しようなんて氣になったばかりに、かへって勢いをつけさせた。
自然が善を欲するのは、己の法の維持に役立つ惡の埋め合はせをしなくてはならない時だけだ。神は常に万有に働きかけてゐなくてはならないが、自然はといhrば、絕へ閒なく活動することを己の法の一つとしてゐる。つまり、自然は神と永久に張り合ひ、反目してゐなくてはならないことになるんだ。
自然は活動する物質以外の何ものでもない
施し。慈善
物乞ひをなくす方策を求める聲が至る所から出てゐるやうだが、さう言ひながら、人は物乞ひを增やすことにひたすら努めてゐるといふわけだ。
感受性が弱まって、すり減ってしまふ
感受性は、われわれに快樂を引き起こすための火床であってくれれば、それでいい
殘忍さが生じる
所變はれば品變はる
これをわれわれに吹き込んでゐるのは自然なんだから
繁殖といふのは自然が大目に見てくれてるだけなんだからね。自然が、自分の全能なる權利を奪ってしなふ生殖なんていふ行爲を法として規定することはありえないさ。
いや、被害者はね、存在しますよ。不幸に打ちのめされてしまった人は、やはり被害者ですね。しかし、犯罪者は存在しえません。
加害者は加害者であって犯罪者ではない
現實の享樂よりかうしたエピソードのはうに魅力を感じてしまふ
快樂を驅り立てるのは想像力