2008/12/31 人間は「 」するサルであるか
人間とは、それが「人間」と認められるものである、という定義はたれにとっても自明なことだと思われる。それでも「人間とは何か」と問う理由が考えられるならば、人はそこに、自らを種として区別する欲望をもっているからだ。〈アイデンティティ〉への欲望である。――機械と人間の差異を問うときは、自動と意志とがなにを異にしているのかを疑っている。サルと人間との差異が問われるときには、自然と自らとのちがいを人は求めている。この点でいえば、人間は「自覚」するサルであると言えるかもしれない。
生物の〈種〉を区別するとき一般には、その種が有性生殖ならば「不稔性」に依る。不稔性とは、或る一つの個体と別の個体とを掛け合わせて子が産まれるか、またその子に生殖能力が受け継がれるかということである。二つの個体が不稔であれば、子が出来ず、或いはできてもその子は子孫に受け継げない。そのときにこの二個体は別種であるといわれる。これとは別の区別もある――「棲み分け」によるものだ。或る個体群と別の個体群のつくりだす圏域(種社会)が重なり合わないときに、これらは別種である。そして「進化」とはこの圏域が分離することだという。
人間が他の生物種とくらべて特殊であるとするならば、その生活に於いて特殊な圏域をもたないことだ。どんな社会の領域であってもかならず世界全体に渡っているといってもおなじことだ。どんな植物でも必ずその〈無機物〉である部分をもっている。また動物もその〈植物〉や〈無機物〉の部分をもっている。おなじように人間もまた、〈動物〉〈植物〉〈無機物〉である部分を保持している。これらを「漸次」ではなく「段階」として区別すると、棲み分けは無機物では存在しない或いは余りに厳格に過ぎるし、植物・動物となるにつれその動く度合いと共に曖昧になり、人間では流動的知性で以て逆に自然を任意に分画するようになる。あるいみ無機物から螺旋をたどってメタフィジカルに一回転したと見做せる。「サル」を人間ではなく動物だとすれば、この違いは知性の完備性に帰せられる。つまり標語にすれば、人間は「時空を無視」するサルだと捉えられる。
少し、具体像だけ追ってみる。
狩猟採集民の社会の経済構造をざっくばらんに纏めると、〈分与〉の経済であるらしい。「平等」と言うのでは、概念が広すぎて捉えられない、もとい穿ち過ぎだとおもわれる。配分的正義(共同)と矯正的正義(対偶)の区別すらつけられていない。「富は低きに流れやがて雲の散るように霧の消えるように無くなるもの」と、俗っぽく言えばそうなるのかもしれない。一般に交換の型は、「互酬制」「収奪と再分配」「資本制」に分けられる。互酬制と云うのは平行な共同体を形作るもので、〈贈与〉の輪によって成り立っている。収奪と再分配とは絶対不平等を〈贈与〉と見せ掛けるもので、「国家」を形成する。資本制は最も〈贈与〉から遠いようにも思われているが、――実際、身体からの剩餘價値あるいは、金融からの利子という〈贈与〉を原理としている。「分与」という言葉はここでは「互酬制」に言い替えられる。富は〈負債〉をゼロ0にするように贈与の輪に取り込まれる。ベッギングbeggingやポトラッチpotlatchも〈贈与の輪〉の論理に於いて理解される。「ベッギング」とは「物を乞う」ことであり、富の〈蓄積〉を阻害して円環をまもる。「ポトラッチ」とはその儘「贈与」の意味であり、異界への贈り物と相手への贈り物を二重化している。 牧畜民レンディーレの人生は、男は三つに、女は二つに分画されるらしい。男の人生は、1.) 結婚年齢前の子供(0~約20才)、2.) 結婚年齢後の青年(約20~30才)、3.) 結婚後の長老(約30~50才、一夫多妻)、の三期。女の人生は1.) 結婚前の子供(0~約15才)、2.) 結婚後(約15~50才、この間に何回か死別と再婚を繰り返す)、の二期である。人生を婚期居で腑分けするのは別に不思議でもなんでもない。〈血縁〉を基に時間を区分しているだけだからだ。だがわたしたちの現代からすれば、ただ誰と結婚しているか、離婚しているかで人を見ているにすぎない。どの〈家族〉に人がいるか、だ。――これらは既に〈血縁〉ではなく、対の集まりにすぎなくなっている。これを「歴史の終わり」といえば事は簡単にすんでしまうが、あきらかに誤りである。ただ対が、〈血縁〉という通り道を渡って歴史とは繋がらなくなっただけだ。レンディーレに於ける「結婚前の子供」とは、血縁の歴史に組み込まれておらず、ゆえに神聖の時空に触れてはいけない者達である。
問題は、だから彼等や私達を、「贈与するサル」であるとか「歴史を語るサル」とか言って済むか、それで人間に就いて如何ほどのことをのべうるのか、ということである。外延的には人間は、ただ世界中の人間を走査したリストを示せばよいだけだ。過去も未来も含めれば、技術的に不可能とはいえ、擬似有限なのだから可能ではあるはずだ。段階として捉える場合、内包的には人間は、〈自然〉から異和をもって遅延して来、自らを自分の根拠としうるまでに至った錯合体としてとらえられなければならない。これは或る人を持ってきて、彼が人間かそうでないかを判別する役にはまったくたたないが、誰もが「人間とはなにか」を追い詰めた時におちいらざるを得ない点である。
逆に、サルとは如何なる段階か、という問いは無意味でしかない。人間から見ればサルは〈動物〉という段階にほかならないからだ。「人間は理性をもったサル」「遊ぶサル」「経済するサル」「話すサル」「労働するサル」「共食するサル」「踊るサル」「音楽するサル」などと、恣意に無限に想像力のままに出てくる定義をもてあそんでも、或る特定の論議を強化するのに役立つだけだ。そして、サルは人間であるかないかの議論の呼び水となるしかない。「自覚するサル」「時空を無視するサル」という先に上げた“定義”も、同じぐらい役に立たない。
これらの“定義”にすこしでも意味を見出すとすれば、原始のころから「人間」というものを他の動物たちなどから差別しようとしてきた厖大な歴史に於いてである。もちろんこの“差別”は社会からすれば当然のものだ。それでも――と敢えて言わねばならないが――それでも人は自然と交通をもたなければ成り立たないと考えられてきた。2010年代も近い現代を特徴づける点は、圧倒的な不平等によりこの「自然」がなくなってしまっていることだ。価値の基準を見定めえなくなっているということでもある。自然というのを、如何なる立場であってもそれを掘り下げていけば突き当たる普遍であるとすれば、それが見えないのはつまり価値に隔壁ができていると言えばイメージはつかみやすいか。この事態を認識する知は未だ存在していないし、対処する倫理もみえていない。
人や社会がまえよりも劣ったということではけっしてない。人も、社会も、「よりよく進歩する」ものでも「よりわるく退歩する」ものでもないからだ。わたしは現代の変化は、1980年代後半に始まり未だつづいている一つの流れだとおもえる。現代社会の諸問題、に言及するには、まずは共同とはいかなるものか、についてなにごとかを述べなければならない。そして共同と個体は位相のちがうものである。