永井均「存在と時閒 哲學探究1」2016/3/30
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Leibniz 原理 / Kant 原理
第一基準 / 第二基準
實存 / 本質
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私
〈私〉
A 事實
《私》
A 變化
「私」
B 關係
〈私〉の一囘性は「私」の反復性の前提である (無寄與存在、一方向存在) が、〈私〉を〈私〉として認識する爲には「私」の反復性が必要である (macro 的基礎、共通感覺)。「私」の反復性は〈私〉の一囘性の前提である (永劫囘歸) が、「私」の反復性を認識する爲には〈私〉の一囘性が必要である。これは循環ではない。雙對性ではない。〈私〉の一囘性は「私」反復性を認識出來ない。「私」の反復性は〈私〉の一囘性を認識出來ない。どちらからも一方向的である。どちらからも謎であるが謎として取り扱へない。この隔たりは辨證法的に解決出來ない。行爲的直觀として Noema と Noesis とを合一させても無駄である。全てが被媒介であるとすれば、一囘性→反復性と反復性→一囘性との隔たりは無く成るが、絕對媒介性が謎を謎として扱ってしまふ爲であって、隔たりは消滅させられるのであって解決はしない 私
無內包〈私〉
新しい神
私が論證不能なら、他の論證不能なものと置き換へてはいけないのだらうか? 我 (- 汝) ではなく彼 (- 其) に。私における無と零の分裂は、彼における新しさと meta の分裂に繰り返される
存在の優先性
存在→認知 (= 本質) / 未定義
〇次內包《私》
meta な神
本質の優先性
本質→現在 (= 存在) / 可能