序説第二版
思想は不可避に遣って来るし、必然的にしか遣って来ない。或る事を問う正当性は只其れが不可避として問われざるを得ないという実際に依ってのみ保障される (誰も其の資格を持たない)。哲学は分業体系の自己言及点 (死) であるが、思想は分業から排除されたもの (死) である。 決定するとは分断線 (/) を引き、中央 / 周縁の階層的二項対立を秩序付ける事である。
正義は疑問提示不可能でなければならない、詰り、問うた瞬間常に既に必ず――其れは判定出来ないのだが――飲み込まれていなければならない。 神は祈る事と勅される事でのみ関係――出来ない。祈る事は願う事ではない。祈りとは贈与であり、自体は決して現前しない、立ち現れる。 何かを言う時、其所には必ず「私にとって」、「私としては」が常に既に棄却されている。此の永久重力 (非主体) は補充不可能 (死体) である。
永遠極限 (defarance) は述べ得ない。其れは常に棄却されている所に於いて、である。 <ins>不可避は皆が知っているし、誰も知らない。</ins> 私 (原主体) は鏡 (他者) から反射されて物象化される。だから「私は思う」という私の意識は「自分が話すのを聞く」(独我論)、「声は、自分を聞く (=聞かれる)」というのが根本構造であり、「声は意識である。」
独我論とは永久重力から逃れ得たという風に自覚<ins> (妄想) </ins>する事、則ち「自分に成り立つ事は皆に成り立つ」と信じる論理だ、だから「他者をありえない仕方で定義する論理」となる。所が、永久重力から逃れ得ない。
人から傷付けられた時は必ず同時に人を傷付けている。人から奪った時は必ず同時に人からも奪われている。此の「天に唾きす」という構図は本質的だと思う。
思想は救済の為にする。思想なぞする者は救われていない馬鹿者だと思った方が良い。
私の書く事は毒だ。
永劫囘歸 (差異反復) は絶対の内部であり、出る事も出来なければ戻る事も出来ない。全てが其れ其のものなんだから。 分断線が権力線へ昇華しない限り暴力は起こらない。例えば黙契が禁忌にならない限り迫害は起こらない。然して其れは周縁の実際性に依る。
<ruby><rb>情報伝達</rb><rt>コミュニケーション</rt></ruby><ins>物語り</ins>は常に他者に向けて行う。話が通じていると確言する契機は無い。要するに可能性が無条件に必然性へと「命がけの跳躍」をする。
実体なるものは物象化の産物である。物象化とは習慣的な事象が凝結して実体にまで昇華される事である。正確に言うと物象化は習慣的なものでなくとも良い。只納得する事に因り凝結すれば其れは達成される。
「私は~と知っている」と言うムーア言明は永久重力のくびきを背負うという表明である。
忘却は永遠である。<ins>……</ins>
永劫囘歸は<ruby><rb>始原</rb><rt>アルケー</rt></ruby>と<ruby><rb>終末</rb><rt>テロス</rt></ruby>の螺旋である。又、問い・答えの<ruby><rb>関係</rb><rt>エコノミー</rt></ruby>でもある。 本質はバベル以前の言語であり、遡行に因って漸近的にしか展望出来ない。だから、本質 (表層) 論は方法としてしか成り立たないし、<ins>は</ins>撒種としての本質 (仮面) である。 祈る事で重力から恩寵され、我々は怪物になる。
引用は代弁である。
振り仮名は言語の背景である。其れは階層に二重化された言語を表す。
流浪する文章は著者の永久重力から解放されている。なんとなれば読者の永久重力に捕えられるからだ。
他者への重力は想定しえない。
人は關係の絕對性 (因縁) と言う不可避を生きる、絶対の尊厳 (人権)を持つ独異者である。其れは正義の名に於いて本質的に提唱される。 自覚という応答 (妄想)が責任である。其れは正義への応答である。
自覚するとは他者の對象 aを掴み出す事だ。何故なら自我は對象 a から仮構されるからだ。それは永久重力の自覚でもある。 宗教の条件は神への祈りと啓示<ins>戦き</ins>である。然して世界は必然の啓示である。
本質論は発生論である。何故なら其れは<ins> (</ins>遡行し物象を構成し直すからである<ins>)。
「喰う」事は重力として我々を捕える。其れは欲動の初めである。
「神を畏れる事は知識の初めである。」(「旧約聖書、箴言」より)
思考に於いて対象化 (物象化) は絶対に逃れられない。或いは寧ろ思考とは対象化を完遂しようとする事である<ins>だろうか</ins>。
物と物との関係が有るのではない、只永久重力と永劫囘歸との対世界関係が有るのみである。 物象化は永劫囘歸と永久重力との対世界関係 (労働 = 非対称的行為) に依る。 何故此ういう言い方をしなければならないかと言うと、其れはバベルの塔 (最初の根拠 = 最後の砦) 以前の物語だからである。
具体的な「他の人間」なるものは其の身体に依る。
倫理学は権力線 (善 / 悪) に依るが<ins>し</ins>、正義に於いて倫理は不可能となる。
俯瞰して永久重力から飛ぶ事は出来ないが、心像に於いて俯瞰する事は出来る。心像と言う時点で永久重力から離れる事を放棄しているからである。
世界は、ほら、此んなにも面白い。
「誰も蛙を狂ってるなんて言わないのにねぇ」(甲田学人『Missing』より)
思想教育は不可能だ。
身体の原像は死体である。
段階を遡行展開するとは非連続の連続を隠喩する事だ。
<ruby><rb>知識人</rb><rt>インテリゲンチャ</rt></ruby> は啓蒙するが、不可避へ遡行する為には衆生の原像を思想に導入しなければならない。 他者性<ins> (無起源) </ins>は不可避である、則ち隠喩は常に既に必ず与えられている。此れは不可避という無根拠しかないという不可避 (確実性) の宣言である。 哲学は啓蒙するが、思想は救済する。哲学から不可避は絶対に出て来ないが、思想は不可避に行き着かざるを得ない。思想は必ず絡め手になる。 思想体系というのは精神病者の妄想と何ら変わる所は無い。
主体は欲望の一の線に沿って出産され、對象 a による自覚を以って完成する<ins>出産される</ins>。だから<ruby><rb>世界</rb><rt>ワタシ</rt></ruby>は撒種な模倣である、詰り空 (因縁) である。 方法としては我々は遡行展開する――遡行展開とは螺旋に沿う事である。全てが永劫囘歸に沿うが誰も其れを知らない、勿論此の文章自身も。 或る物と或る物が同じ<ruby><rb>範疇</rb><rt>カテゴリー</rt></ruby>にあると言う時、其れ等は第三項に於いて類比的類似性を持つのである。
第三項 (或いは周縁) は排除 (<ruby><rb>棄却</rb><rt>アブジェクト</rt></ruby>) され限定されるのであるが、<ruby><rb>場処</rb><rt>コーラー</rt></ruby>として<ruby><rb>道化</rb><rt>パルコマス</rt></ruby>的に限定し、活性若しくは脱骨する。
「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マタイ)
「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」(マルコ)
<ruby><rb>経済</rb><rt>エコノミー</rt></ruby>には三種がありうる。天の<ruby><rb>領地</rb><rt>エコノミー</rt></ruby>と地の<ruby><rb>領地</rb><rt>エコノミー</rt></ruby>と底の<ruby><rb>領地</rb><rt>エコノミー</rt></ruby>の非連続の連続が。
アルトーを継いドゥルーズ&ガダリが言う事は此うである、生 (詰り死) は死の敵である。
昼の光は遮蔽され影となるが、夜の闇は遮蔽されない。則ち前線の極限では個物は無い。
西田の「超越論的述語面」とは夜の風景であり、「主語的基体」とは昼の風景である。所が「絕對無の場所 (自由意志)」とは非風景である。 丸山圭三郎は此う主張する、カオスからコスモスが出るのではない、カオスモス (非制度) からカオス (原制度) とコスモス (制度) が既に出て仕舞っている。
リズム・メロディは曲の制度 (属領) だ。
躰は常に分身である、元の躰は既に埋葬されている。
顔は常に仮面である、元の顔は既に焼却されている。
原制度は<ruby><rb>無秩序</rb><rt>アナーキー</rt></ruby>な<ruby><rb>周縁</rb><rt>カオス</rt></ruby>だ。
<ruby><rb>凡そ他者なるもの</rb><rt>tout autor</rt></ruby>は<ruby><rb>全く他者なるもの</rb><rt>tout autor</rt></ruby>である。
物が照らされるとは、包囲光が遮蔽される事である。
欲望 (影) は不可避の力 (存在) だ。
労働が価値の<ruby><rb>泉</rb><rt>ヨミ</rt></ruby>である。
大衆は雑踏に始まる、然して噂が交う。
2005 年に書いたのではないか