1950『精神分析と宗教』
エーリッヒ・フロム
/nzht/フロム
神学と心理学が根ざす人間存在
そこではじめにフロムは宗教とはなにか、その諸相を暴くために宗教の立脚する人間の分析をはじめる。そしてフロムは序論にて「本書の内容は、倫理に関する心理学を問題にした、『人間における自由』(Man for Himself)に展開された思想につづくものであると了解されたい。倫理と宗教とは緊密に関連しあっており、したがって重複する部分もでてくる。しかし、『人間における自由』においては、重点はまったく倫理におかれたのに対して、本書では、宗教の問題に焦点をおこうとした」と論じたように、実存分析はすでに前傾書にして成したとし、引用から本章を始める。そしてそれは人間本性の二分性と、それを克服=調和しようと試みる運動である。
「自覚や理性や想像というものは、動物的生存を特徴づけている「調和」を瓦解させてしまった。それらの出現は人間を変則となし、造化のいたずらとなしてしまった。人間は自然の一部であって自然法則に順応し、そのような法則を変えることはできないが、しかもまた宇宙の他のすべてのものを卓越する。人間は部分的な存在でありながらまた独立した存在でもある。人間は故郷をもたない。しかも人間もまた他のすべての生物とともに、同じ故郷にしばられている。人間は時もところも偶然にこの世界の中に投げ込まれ、そしてまた個然にそこから引き離されて行く。自覚をもつゆえに、人間は自分の存在の無力と制限とを感得する。人間は自分の終わりを、死を、ありありと描き出す。人間は決して自らの存在の二分性から逃れられない(...)」。「人間の祝福である理性は、同時に呪詛でもある。理性は終始人間を強いて、解決不可能の二分性を解決しようとする課題に向かわせる。人間存在はこの点において、他のあらゆる生物とは異なるのである。人間の存在は、絶えまない、避けがたい、不均衡の状態である。人間の生活は、その種族の生活様式をただ繰り返すととによって「過ごされて行く」ものではない。人間は自分で生きなければならないのである。人間は、退屈し、不満を覚え、楽園を追われたと感ずることのできる、唯一の動物である。人間とは、自分にとって自分自身の存在が、自分で解かねばならぬ問題であり、またその問題から逃れることのできない、唯一の動物である。人間は、自然との調和を保っている人間以前の状態に帰ることはできない。人間は、自分が自然の主となり、また自分自身の主となるまで、理性を発展させて行かねばならない」「理性の発現は、人間のうちに二分性を生み、この二分性はさらに、新しい解決に向かっての無限の努力を人間に強いるのである。人間を発展させ、その発展を通して人間が自分自身と、また他の人たちと、調和を保って行けるような人間固有の世界を形成させる理性の存在にこそ、人間歴史の動力は存在する。人間が到達するあらゆる段階においても、なお不満足と困却とはえ去らないのであって、まさにこの困却こそが、人間をさらに新しい解決に向かっての動きへと追いたてるのである。人間のうちにもともと本性的な進歩への欲望があるというのでは決してない。人間に、そのすでに歩み始めた道を進ませるものは、人間存在におけるこの矛盾なのである。楽園を、すなわち自然との和合を失ったので、人間は永遠のさすらい人になってしまった(オデュッセウス、オイディプス、アブラハム、ファウスト)。人間は一そうの前進を強いられているし、また、無限の努力をもって、その知識の空白をいろいろの解答で充たしながら、未知のものを理解して行くように強いられている。人間は自分自身に対して、自己自身とその存在の意味とを解明しなければならない。人間はこの内面的な破れを克服するためにかりたてられ、そして自己を自然から、仲間から、また自己自身から隔てている呪詛を消散させるような「絶対者」や、他のなんらかの調和を熱望して苦悩するのである」「人間存在の不調和は、人間のもつ動物的欲求をはるかに超えた、かずかずの欲求を生み出す。これらの欲求は結局、人間と他の自然との和合均衡を回復しようとする、一つの絶対的な追求に帰着する。人間はまず、自分がどこに立っているのか、なにを為すべきなのか、という問いに対する解答を導き出す際の準拠体制として役立つような、すべてを包合する精神的世界像を造り出すことによって、この和合均衡を回復しようと試みる。しかし、そのような思想体系だけではまだ不充分である。もし人間が肉体をもたない、ただ知性だけの存在にすぎないのであれば、かれの目的は、一つの包括的な思想体系によって成就されもしよう。しかし、人間が精神と同時に身体をもった存在である限り、たんに思想においてのみではなく、その全生活の過程においても、そのさまざまの行動や感情においても、人は自らの存在の二分性に抗すべきである。人間は新しい均衡を見出すために、自らの存在の全領域における和合と一致の体験を追求すべきなのである。それゆえに構えの充分な組織とは、たんに知的要素だけではなく、人間活動の全領域において、ふるまいにあらわれる感情や感覚の要素をも包合するのである。一つの目的、一つの理念、あるいは神、というような、人間を超えた力への献身は、全生活過程の完成を求める、このような欲求の一つの表現なのである」