『風姿花伝』
十七、八より
この頃は重大な転換期にあたり、多くの稽古は望めない。まず声変わりにより第一の花を失う。姿形も腰高になり、見た目の花も失ってしまう。かつて声もよく出、姿花やかにして、万事順調だった頃とは、演じ方も勝手もまったく変わってしまうため意欲も消え失せる。観客も不自然に感じ、その気配を察しては恥ずかしく思い、あれやこれやでへこたれてしまうものである。この時期の稽古法。たとえ人に指さされ笑われようと相手にせず、普段の稽古では喉に無理のない調子で、朝夕発声練習を心がける。心中には願をかけ、一生の分かれ目は今ここだと死ぬまで能を捨てない覚悟をかためるほかはない。ここでやめてしまえば、能はそのまま止まってしまう。 おおむね声の高さは人それぞれだが、黄鐘(雅楽十二律の八番目の音程)・盤渉(同じく十番目の音程)の高さを目安に謡うとよい。無理な調子で謡おうとすると、立ち姿にまで悪いくせが出るものだ。また、追々喉をつぶしてしまう原因ともなる。
二十四、五
この時の花こそ初心のたまものと認識すべきなのに、あたかも芸を究めたように思い上がり、はやくも見当違いの批評をしたり、名人ぶった芸をひけらかすなど何ともあさましい。たとえ人にほめられ、名人に競い勝ったとしても、これは今を限りの珍しい花であることを悟り、いよいよ物真似を正しく習い、達人にこまかく指導を受け、一層稽古にはげむべきである。 この一時の花をまことの花と取り違う心こそ、真実の花をさらに遠ざけてしまう心のあり方なのだ。人によっては、この一時の花を最後に、花が消え失せてしまう理を知らぬ者もいる。初心とは、このようなものである。 一、公案を尽くし考えるべし。自身の芸位と格を客観的に心得るなら、もとある花は死ぬまで失せない。しかし本来の実力以上に思い上がるなら、もともと備わっていた花をも失ってしまう結果となる。よくよく心得ること。
微妙な言葉の響きでも「なびく」「伏す」「帰る」「寄る」などという言葉はやわらかなので、自ずから余情となるようだ。「落ちる」「崩れる」「破れる」「転げる」などは、響きが強いので強い振りにあうだろう。つまり強い・幽玄というものは別にあるものではなく、物真似の正しい方法、弱い・荒いは物真似に外れる方法である。 そもそも花というもの、万木千草四季折々に咲くものであって、その時を得た珍しさゆえに愛でられるのである。申楽においても人の心に珍しいと感じられる時、それがすなわち面白いという心なのだ。花、面白い、珍しい。これらは三つの同じ心である。いずれの花でも散らずに残る花などあろうか。花は散り、また咲く時があるゆえ珍しいのだ。能も一所に常住せぬところを、まず花と知るべきだ。一所にとどまらず他の姿に移り行くことが珍しいのだ。 秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、
「家はただ続くから家なのではない。継ぐべきものがあるゆえ家なのだ。人もそこに生まれただけでそこの人とはいえぬ。その家が守るべきものを知る者のみ、その家の人といえるのだ」