『現代思想入門』
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現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。 現代思想とは
1960年代~1990年代
ですから時代の大きな傾向として言います。現代は、いっそうの秩序化、クリーン化に向かっていて、そのときに、必ずしもルールに収まらないケース、ルールの境界線が問題となるような難しいケースが無視されることがしばしばである、と僕は考えています。何か問題が起きたときに再発防止策を立てるような場合、その問題の例外性や複雑さは無視され、一律に規制を増やす方向に行くのが常です。それが単純化なのです。世界の細かな凹凸が、ブルドーザーで均されてしまうのです。 物事をちゃんとしようという「良かれ」の意志は、個別具体的なものから目を逸らす方向に動いてはいないでしょうか。 そこで、現代思想なのです。 現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。
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つまり、単純化
現代思想は差異に注目する
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「差異」は、「同一性」すなわち「アイデンティティ」と対立しています。同一性とは、物事を「これはこういうものである」とする固定的な定義です。逆に、差異の哲学とは、必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考です。とくにこれを強く打ち出したのは、次章で扱うドゥルーズです。ドゥルーズの主著は『差異と反復』(一九六八)というタイトルで、それはまさに差異の哲学の代表作と言えるものですが、一方でデリダもまた差異の哲学のもう一人の巨人です。 今、同一性と差異が二項対立をなすと言いましたが、その二項対立において差異の方を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だと考えるのが現代思想の大方針なのです。
パロール vs エクリチュール
「自分が自分に最も近い状態である」
=同一性
レヴィナスとデリダの違いを簡単に言っておくと、レヴィナスの場合、他者の隔絶した絶対的な遠さが強調されるのですが、デリダの場合は、日常のなかに他者性が泡立っているようなイメージだと僕は思います。日常を、いわば他者性のサイダーのようなものとして捉える感覚です。一切の波立ちのない、透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのビジョンであると言えると思います
日常を、いわば他社性のサイダーのようなものとして捉える
ここでまた仮固定と差異の話を思い出していただきたいのですが、すべての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。我々は決断を繰り返しながら、未練の泡立ちに別の機会にどう応えるかということを考え続ける必要があるのです。 脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断をつねにせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう、ということになる。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということなのだと思います。