『映画を早送りで観る人たち』
https://gyazo.com/e30865af9b22dd8be98b9c99989d37c2
森永氏によれば、大学生の彼らは趣味や娯楽について、てっとり早く、短時間で、「何かをモノにしたい」「何かのエキスパートになりたい」と思っている。彼らはオタクに〝憧れている〟のだそうだ。 ところが、彼らは回り道を嫌う。膨大な時間を費やして何百本、何千本もの作品を観て、読んで、たくさんのハズレを掴まされて、そのなかで鑑賞力が磨かれ、博識になり、やがて生涯の傑作に出会い、かつその分野のエキスパートになる――というプロセスを、決して踏みたがらない。 彼らは、「観ておくべき重要作品を、リストにして教えてくれ」と言う。彼らは近道を探す。なぜなら、駄作を観ている時間は彼らにとって無駄だから。無駄な時間をすごすこと、つまり時間コスパが悪いことを、とても恐れているから。 彼らはこれを「タイパが悪い」と形容する。 鑑賞か情報収集か。
映画が「芸術」かどうかという話をするなら、少なくとも登場最初期(20世紀初頭)時点では「芸術」ではなく、見世物であり大衆娯楽だった。しかし1911年、イタリアのリッチョット・カニュードが『第7芸術宣言』を著し、映画を時間芸術(音楽、詩、舞踊)と空間芸術(建築、彫刻、絵)を総合するもの(=第7芸術)と定義して以降、その芸術性が自覚的に追求されていき、現在に至る。その意味で映画という文化ジャンルには、「芸術」と呼ばれうる側面が確実に備わっていると言えるだろう。 辞書的な定義はどうあれ、あるいは「芸術」と「娯楽」を対義語のように使用するのが妥当かどうかはさておき、少なくとも「それは芸術の話でしょ」の発言主の中で「芸術」と「娯楽」は明確に区別がある。つまり、こういうことだ。 芸術――鑑賞物――鑑賞モード
娯楽――消費物――情報収集モード
「観たい」のではなく「知りたい」
倍速視聴や10秒飛ばしや話飛ばしには、まったく向かない作品。
──長い時間をかけて何かを体感するというのは、確かにフルアルバムの持つ効能の1つですよね。最近は動画なんかも倍速で見るのが当たり前のような時代ですが。
僕もバラエティ番組とかは倍速で観ますけどね(笑)。余談ですけど、「水星」を一緒に作ったオノマトペ大臣は「小津安二郎を倍速で観る」という名言を残しています(笑)。 ──(笑)。
僕はそういう人に文化を教えてもらった人間なので、ものぐさな部分もある。ただ、それこそ濱口監督の映画を観ても思いますけど、やっぱり長いものを長いまま観ないとわからない感情ってあるんですよね。小説だって1冊を読むから小説なわけで。それを2倍速で観たり、要約を知るためにまとめサイトであらすじだけを追うことは別に悪いことではないし、僕もしますけど、それとこれとは違う行為だということはわかっていないといけないなと思う。ちゃんと長い時間をかけて表現しているものに対しての軽視はよくないなと。「短い時間ですべてを理解したい」というのは陰謀論なんかに近付いていってしまう気もするので。時間の長さって、ほかに替えることができないじゃないですか。僕も今回、前のアルバムから4年経ちましたけど、4年って長いんですよ。長いからこそ、このドキュメンタリーのようなアルバムができたし、今回、本を出そうと思った理由もそこにあるんですよね。4年分の愚痴がこの本にはあるので(笑)。 長いものを長いまま観ないとわからない感情ってあるんですよね。