『半歩先を読む思考法』
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半歩先の未来を考えることは身体性を拡張することに似ている。自分の見知った時空間を半歩先まで拡張しながら、同時にこの現実を、この世界を生きることでもある。その身体性の及ぶ範囲の未来を、自分のちょっと先にダブつかせながら、時間が過ぎ去っていくこと、空間を通り過ぎていくことに愛着を感じながら過ごしている。その瞬間瞬間が生み出す、空間と時間の断面を写真で記録したり映像で記録したりすることも忘れてはいない。そうやって忘れ去られていくもの、消え去っていくものを愛でていくことで不可逆な時間を感じることができる。
時間は有限だから、全部をこなすのはかなり難しい。しかも切り捨ててしまうと芝が蒼く輝きだすから厄介だ。大人になってから取り戻そうとする青春は醜いし、ちゃんと老成する方法論だってあるはずだとも思う。
時間の変化を感傷に変えない年頃の子どもの感性は美しい。不可逆性を意識せず歩むことができる美を携えている。
子供の時は、時間の進む方向は、プラスに向かって進むだけの感覚あったかも。
時間が経てば、無条件で身長が伸びていく感覚。
子どもが生まれたときに「豊かな人生を」と母子手帳に書いた。豊かな人生ってなんだろう。この子の身体や脳に一生で生じた多くの体験が刻まれて、それがやがて失われていく瞬間まで意識を高め、社会と接続し、価値を生み出していくことなのか。宇宙にとっては瞬間の情報の演算でしかないようなこのちっぽけな点にも豊かさがあったと信じたいのだろうか。信じたいのは誰だ、自分か。そういった時空間の経験の蓄積が豊かさにつながり、ここに生まれた生命が豊かさを享受しながら生まれ、死にゆくことを願ったことがあるということは、僕の豊かさにも接続しているのだろう。 「いつごろだったか忘れてしまったんだけど、トミカのことがそこまで好きじゃなくなっちゃったんだよ、君は一生好きでいられるといいね」と言うと「トミカ好きだから大丈夫」と言われる。確かに、今はそうかもしれない。未来はわからない。でも僕は小さい頃からずっと好きなものがある人のことが好きだったりする。少なくとも僕はその感覚を失ってしまって久しい。
人生には色々なフェーズがあって、きっと集中しないといけないものも、習慣も変わっていく。何を覚えていて、何を忘れていて、何を拠り所に生きていかないといけないか、というあらゆるこだわりを徐々に捨てながら、透明な自分を目指す中で出てくるほんの僅かな違いが感性なのかなと思っている。
SNSでの井戸端会議、私刑、宗教裁判、大喜利で空気が悪くなる。
空気を読みながら空気を淀ませてきていた。
休んだ記憶をできるだけ残す。
インプットした感が重要。
日々を社会科見学の気分でレポートを書きながら過ごす。 20代→30代
頭、体力、クリエイティブ
「長く続ければ美しくなるもの」の組み合わせ。
醒める瞬間と熱狂的な瞬間の反復横跳び。
後継の成長のために、適度な無理感を与え続ける。適切な無理難題を適切なハードルで振る。